第17回 京の五条は六条通?~松原通東から西~その1
今回は、久しぶりに写真がない回です。
(第1回以来です)
観光地巡りのようなことをここ数回してきましたが、
ここは初心に帰って「京の道」を書こうと思います。
それで、今回から数回にわたって
松原通を取り上げていこうと思います。
これまでも神社仏閣よりも道に比重を置いてきましたが、
しばらくは道そのものにこだわったものを書こうかなぁと
いうわけです。
ある目的地に行くための道というより
同じ道でも進んでいくうちに変わっていく
風景や様子が面白いので、
その辺を大切にしていこうかなぁと考えています。
まぁ、これからしばらく一本の道にこだわって書くわけですが、
写真でつづる紀行文に入る前に
こういう文章と地図などでその道を紹介する回を
最初に設けたかったのです。
松原通の面白いところ
そういう風に描く道を
最初はどこにしようかと考えました。
京都を輪切りにするという意味で
東西の道にしようとは決めていたのですが、
他にも条件がありまして……
☆2車線以内のあまり太くない道
☆観光地とそうでないところ両方を通る道
☆商店街など、京都市民の生活が見える道
これらを最も満たしているのが、
松原通なのです。
松原通は東は清水寺から発し、
西は住宅街の中で終わります。
その間、問屋街や商店街を通り抜け、
葛野大路まで行く途中で
ぷっつりと途切れてしまいます。
工場街にも通っていれば、いうことないのですが
その間の風景や様子の変わり方が様々で、
ある意味「京都の縮図」になっているのです。
松原通の位置
先ずは、リンク先の京都市街地図をご覧ください。
(「京都市街地図」をクリックしてください)
ちょうど鴨川から烏丸通の辺りを貼り付けておきました。
この地図をもう少し縮小するとよく分かるのですが、
松原通は、四条通と五条通の中間にあります。
ですから、松原通り自体には市バスは通っていませんが、
「〇〇松原」というバス停を
南北の大通りで、よく見かけることになります。
四条通は、地下に阪急電車が通ってたりして、
交通機関の要所だったり、繁華街だったりします。
五条通は、南北の烏丸通と並んでオフィスビルが多い通りです。
また、東は東京~大阪を結ぶ国道1号線だったり、
西は山陰地方へ抜ける国道9号線にも通じていて
京都で最も自動車の交通量が多い通りでもあります。
(京都では珍しい6車線です)
松原通はその中間に位置し、
祇園祭の「鉾町」の最南端であったり、
新撰組関連の施設がある壬生の近くも通ります。
さらに、問屋やオフィスビルが並んでいるところもあります。
松原通の歴史
実は、794年に遷都された平安京には
松原通はありませんでした。
ただ、松原通はその後に作られた通りだったわけではありません。
もともと松原通は五条通りだったのです。
「京の五条の橋の上」で牛若丸が弁慶と戦ったのは、
今の「五条大橋」の上ではなく、「松原橋」の上だったのです!
当時の五条大路であった松原通は、
清水寺への参道として、
平氏の拠点であった六波羅(現在の六原)へと続く道として
「京都のメインストリート」でした。
応仁の乱(1467年~1477年)で一旦荒廃した京都を
豊臣秀吉が再興しました。
その際、秀吉自身を神格化した「豊国神社」に近い
六条通を「五条通」と名称変更しました。
(豊国神社と五条通りの位置関係は、第7回ブログ参照)
そして五条通だったこの道は、「松原通」と名称変更しました。
ちなみに、現在「六条通」と呼ばれる道が何本かありますが、
どれも細くて短い道になっています。
wikiで調べたら、近くに松の生えた原っぱがあったことが
道の名称の語源らしいのですが、
壬生近くの「松原町」が語源だと思っていました。
(近くに京都市立松原中学校がありますし)
ちなみに、この一帯には幕末に松原氏が住んでいて、
新撰組の班長の一人松原忠治はこの辺りの出身です。
松原通の見どころ
一番は、風景が多種多様なところです。
東の方(鴨川以東)は、観光地です。
清水寺があったり、六原・宮川町を通り抜け、
祇園にも近いところです。
中央は、問屋街や商店街が続きます。
千本通付近には、大きなマンションが建っています。
また、壬生の辺りには新撰組関連のものが残っています。
西部には、住宅地が続きます。
そしてだんだんと途切れるように
最西端にたどり着きます。
とりあえず、次回は清水寺の参道から始めます。
来年の一月以降も続けますが、
たぶん正月は初詣を書くので、
その間だけ中断します。
では、今回はここまでです。
(第1回以来です)
観光地巡りのようなことをここ数回してきましたが、
ここは初心に帰って「京の道」を書こうと思います。
それで、今回から数回にわたって
松原通を取り上げていこうと思います。
これまでも神社仏閣よりも道に比重を置いてきましたが、
しばらくは道そのものにこだわったものを書こうかなぁと
いうわけです。
ある目的地に行くための道というより
同じ道でも進んでいくうちに変わっていく
風景や様子が面白いので、
その辺を大切にしていこうかなぁと考えています。
まぁ、これからしばらく一本の道にこだわって書くわけですが、
写真でつづる紀行文に入る前に
こういう文章と地図などでその道を紹介する回を
最初に設けたかったのです。
松原通の面白いところ
そういう風に描く道を
最初はどこにしようかと考えました。
京都を輪切りにするという意味で
東西の道にしようとは決めていたのですが、
他にも条件がありまして……
☆2車線以内のあまり太くない道
☆観光地とそうでないところ両方を通る道
☆商店街など、京都市民の生活が見える道
これらを最も満たしているのが、
松原通なのです。
松原通は東は清水寺から発し、
西は住宅街の中で終わります。
その間、問屋街や商店街を通り抜け、
葛野大路まで行く途中で
ぷっつりと途切れてしまいます。
工場街にも通っていれば、いうことないのですが
その間の風景や様子の変わり方が様々で、
ある意味「京都の縮図」になっているのです。
松原通の位置
先ずは、リンク先の京都市街地図をご覧ください。
(「京都市街地図」をクリックしてください)
ちょうど鴨川から烏丸通の辺りを貼り付けておきました。
この地図をもう少し縮小するとよく分かるのですが、
松原通は、四条通と五条通の中間にあります。
ですから、松原通り自体には市バスは通っていませんが、
「〇〇松原」というバス停を
南北の大通りで、よく見かけることになります。
四条通は、地下に阪急電車が通ってたりして、
交通機関の要所だったり、繁華街だったりします。
五条通は、南北の烏丸通と並んでオフィスビルが多い通りです。
また、東は東京~大阪を結ぶ国道1号線だったり、
西は山陰地方へ抜ける国道9号線にも通じていて
京都で最も自動車の交通量が多い通りでもあります。
(京都では珍しい6車線です)
松原通はその中間に位置し、
祇園祭の「鉾町」の最南端であったり、
新撰組関連の施設がある壬生の近くも通ります。
さらに、問屋やオフィスビルが並んでいるところもあります。
松原通の歴史
実は、794年に遷都された平安京には
松原通はありませんでした。
ただ、松原通はその後に作られた通りだったわけではありません。
もともと松原通は五条通りだったのです。
「京の五条の橋の上」で牛若丸が弁慶と戦ったのは、
今の「五条大橋」の上ではなく、「松原橋」の上だったのです!
当時の五条大路であった松原通は、
清水寺への参道として、
平氏の拠点であった六波羅(現在の六原)へと続く道として
「京都のメインストリート」でした。
応仁の乱(1467年~1477年)で一旦荒廃した京都を
豊臣秀吉が再興しました。
その際、秀吉自身を神格化した「豊国神社」に近い
六条通を「五条通」と名称変更しました。
(豊国神社と五条通りの位置関係は、第7回ブログ参照)
そして五条通だったこの道は、「松原通」と名称変更しました。
ちなみに、現在「六条通」と呼ばれる道が何本かありますが、
どれも細くて短い道になっています。
wikiで調べたら、近くに松の生えた原っぱがあったことが
道の名称の語源らしいのですが、
壬生近くの「松原町」が語源だと思っていました。
(近くに京都市立松原中学校がありますし)
ちなみに、この一帯には幕末に松原氏が住んでいて、
新撰組の班長の一人松原忠治はこの辺りの出身です。
松原通の見どころ
一番は、風景が多種多様なところです。
東の方(鴨川以東)は、観光地です。
清水寺があったり、六原・宮川町を通り抜け、
祇園にも近いところです。
中央は、問屋街や商店街が続きます。
千本通付近には、大きなマンションが建っています。
また、壬生の辺りには新撰組関連のものが残っています。
西部には、住宅地が続きます。
そしてだんだんと途切れるように
最西端にたどり着きます。
とりあえず、次回は清水寺の参道から始めます。
来年の一月以降も続けますが、
たぶん正月は初詣を書くので、
その間だけ中断します。
では、今回はここまでです。
スポンサーサイト