第405回 「鉄輪」命婦稲荷神社~高倉通南から北~その9
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高倉通を北に向き、五条通を見ています。
五条通以北の高倉通周辺には前回ブログ以上に京町家が建ち並び、
その脇に何本も路地が伸びています。
今回はそのうちの1本にお邪魔して、命婦稲荷神社にお参りします。
謡曲「鉄輪(かなわ)」の舞台で、丑三つ参り発祥関連神社ですね。
撮影日は、2016年6月30日木曜日午後3時半。
梅雨真っ盛りでしたが、この日は珍しく雨が降りませんでした。

五条通に向かう前に、高倉通を東に向きます。
こちらは、浄運院という寺院です。
安土桃山時代に、光誉尊浄によって建立されました。
江戸時代に東本願寺の学寮だったのですが、
現在は浄土宗の寺院です。
境内は広く弁財天堂もいらっしゃいますが、
今回はこちらには立ち寄りません。

再び高倉通から北を向き、五条通を見ています。
では、その五条通に向かいます。

高倉通から、五条通南側歩道を東に向いています。
目の前に、石製鳥居がありますね。

こちらが、その石製鳥居です。
鳥居の扁額には、「千喜万悦天満宮」と書かれています。
こちらの祠がその天満宮で、まずはこちらにお参りです。
その祠の南側から奥に入ることができ、
そちらは第108回ブログでも訪問した西念寺です。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

鳥居の前の駐車場に、こちらの看板がいらっしゃいました。
今年(2016年)に入ってこの駐車場付近にカフェができ、
そことの絡みで作られたのでしょうか?
この写真も、クリックすれば拡大されます。

西念寺は東西に細長い寺院で、向こうの竹垣の辺りまで続きます。
その向こう(東)側は「和食さと」というファミリーレストランで、
さらに向こう側に焼肉屋の「じゅうじゅうカルビ」が隣接します。
さて、目の前に歩道橋があります。
高倉通にも横断歩道がありますが、今回はこちらを渡ります。

歩道橋に上り、五条通の南側を見ています。
竹垣越し(南側)に、西念寺の墓地が見えますね。
そのさらに南側は、浄運院の墓地も見えます。
その東側も「和食さと」と「じゅうじゅうカルビ」の店舗越しに、
墓地が延々と続いています。
(「和食さと」の建物で、ここからは見えません)
オフィスビルや看板・塀で五条通からは直接見えませんが、
高倉通~河原町通間の五条通以南には墓地が延々と続きます。
……こう書くと蓮台野や六原といった霊場か何かのようですが、
そんな深い理由があるわけではありません。
寺町通が五条通で途切れてしまうので、
五条通以南はこの辺りに小さな寺院が集中します。
(第109回ブログも参照してください)
ここは、それらの寺院の墓地が広がっているだけです。
この写真も、クリックすると拡大されます。

歩道橋の上から、五条通を西に向いています。
五条通は、京都ではいちばん広い6車線の道です。
しかも、中央に大きな緑地帯まであります。
また東山~堀川通間の五条通は、国道1号線の一部です。
ここを約350m進むと、「五条烏丸」交差点です。
(第212回ブログを参照)

今度は、同じ場所で五条通を西に向きました。
こちら側から見ても、五条通は広いですね。
五条通は東大路まで伸びていて、
そこから東は「乙羽トンネル」となって山科方面に抜けます。
(国道1号線の道順です)
写真の中央に赤い寺院があるのですが、よく見えませんね。
(レンズ越しではなく肉眼なら、はっきりと見えます)

そこで、カメラをズームしてみました。
こちらの赤い建物は、清水寺の多宝塔です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

歩道橋で、北側を見ています。
では、ここから五条通北側歩道に向かいます。

歩道橋で五条通を渡って、東を向いています。
ここから北に、堺町通が伸びています。
今回ブログのメイン命婦稲荷神社はこの道沿いなのですが、
「高倉通編」の途中なのでここを通りません。

今度は、五条通北側歩道で西を向きました。
目の前に、高倉通との交差点があります。
堺町通側よりも、賑やかですね。

歩道橋を下りると、目の前が「五条高倉」交差点です。
交差点の北東角には100円ショップがあって、
北西角にはドラッグストアがあります。
さらにドラッグストアの西隣は、フレスコ五条店です。
(自転車が、たくさん駐輪している辺りです)
24時間営業の地域スーパーですね。
自分も、会社からの帰りに時々立ち寄ります。
(京都駅から、真夜中に自転車で遠回りします)
これらの店舗があるので、この交差点はとても賑やかです。

五条通から、高倉通を北に向いています。
では、ここを北上していきます。

五条通から、高倉通を北上しています。
左(西)側に、旅館と民家が並んでいます。
どちらも古い京町家ですね。
この写真は、クリックすると拡大されます。

その向かい(東)側も、京町屋が並んでいます。
先述の通り、この辺りは特に京町屋が集中する地域の一つです。
町屋の1F部分の扉の向こうに、路地が続いています。
おそらくその奥にも、小さな京町屋が並んでいます。
これが、自分が小さいころに京都市街地中で見た光景です。
この辺は、それがまだ残っていますね。
この写真も、クリックすると拡大されます。

さらに5mほど北に進んでも、西側にまた京町屋が並んでいます。
こちらの町屋にも、路地が付いていますね。
やはり、奥にまた町家が並んでいます。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

その辺りで、高倉通を北に向いています。
この辺りは、道の両側に京町屋が林立しています。
この先(五条通から北に約120m先)に、東西に伸びる道があります。
あちらが、万寿寺通です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、万寿寺通を東に向いてます。
万寿寺通は、ここから約400m先の
「寺町河原町」交差点まで伸びています。
(写真で見える突き当りにあるビル周辺が、河原町通です)
第396回ブログ地点では、
高倉通と河原町通は100mも離れていなかったのですが……
では、ここから東に進みます。

高倉通から、万寿寺通を東に約25m進みました。
北側に、こちらの居酒屋さんがありました。
だんだん四条の繁華街が近づいて、飲食店の割合も増えてきました。
こちらのお地蔵さんにもお参りして、先に進みます。

高倉通から、万寿寺通を東に約50m進みました。
ここで、万寿寺通は堺町通と交差します。
現在の万寿寺通は「寺町河原町」交差点付近で突き当たりますが、
中世のころはさらに東に伸びており、鴨川に橋も架かっていました。
そこから東に現在は六波羅裏門通が伸びていますが、
そこも中世は万寿寺通でした。

万寿寺通から、堺町通を北に向いています。
辻の北西角にも、京町屋があります。
軒先のアジサイが、見事ですね。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

万寿寺通から、堺町通を北に進んでいます。
右(東)側に、こちらの京町屋の民家が見えます。
その右(南)側に門が見えますが、
こちらは浄土真宗大谷派大念寺という小さな寺院です。

万寿寺通から、堺町通を北に約50m進みました。
左(西)側に、「林亀商店」があります。
こちらは、タオルや手拭い・布巾の卸問屋です。
少し北にある松原通周辺は、問屋街になっています。
(第24回ブログ参照)

その「林亀商店」の南側に、路地への入り口があります。
この扉は夜間は閉まってしまいますが、昼間は中に入れます。
この奥に、今回ブログのメイン命婦稲荷神社がいらっしゃいます。
路地裏の神社は、第72回ブログに出てきた合槌稲荷大明神以来です。

扉をかけて、西を向いています。
路地は西に約20m伸びていて、そこから少し南に折れています。
そして、この路地のあちこちに町屋の入り口が並んでいます。
お気づきの方も多いでしょうが、ここは私有地です。
路地内の住民のご厚意で、お参りが許されている場所です。
ですから、他の神社以上に常識とマナーが必要になります。

堺町通から、路地を西に約15m進みました。
すると、右(北)側に、赤い鳥居が見えてきました。
こちらが、命婦稲荷神社です。

命婦稲荷神社は、路地内の6畳ほどの広場にいらっしゃいます。
鳥居をくぐり左(西)側に、こちらの手水舎があります。
後ろの表札で、この水を飲むことと持ち帰ることを禁じています。
これは、後述のご利益のためです。
ここ以降、神社境内の写真はクリックすると拡大されます。

鳥居の右(東)側には、井戸があります。
こちらが、「鉄輪(かなわ)の井戸」です。
「悪縁を断ち切る縁切りの井戸水」と言われて、
一時期多くの参拝者がいらっしゃいましたが、
現在は枯れていて井戸水はありません。
(これが、先述の手水舎の表札の理由です)
昔ながらの京都の路地には、このような広場に井戸があります。
自分も子供のころは、近所の路地に入り込んでよく遊びました。
その時点ですでに井戸は使われていませんでしたが、
1980年代の「バブル景気」以前は
まだこのような井戸も路地も残っていました。
それが今では大半が取り壊されて、ホテルやマンションです。

「鉄輪の井戸」の北側に、「鉄輪神社」がいらっしゃいます。
こちらは命婦稲荷神社のご神体の石碑発見現場です。
謡曲「鉄輪」は、先妻が疎遠になった夫と後妻を
丑三つ参りで呪い殺そうとするお話です。
謡曲では陰陽師安倍晴明と鉄輪の女(先妻)が対決して
女の呪いを晴明が退けて終わります。
ただ、この辺りの伝承では続きがあって
その後ここで女の死体が発見されます。
井戸の中に身を投げていたという説と
井戸端(まさにここです)で
血を吐いて死んでいたという説があります。
その女のために「鉄輪塚」が建てられたのですが、
1864年のどんどん焼けで焼失しました。
(祇園祭の山鉾と同じですね)
1935年に、ここに「鉄輪塚」があったことを指す石碑が発掘され、
そのことでここに「鉄輪社」が建ちました。

そして、その奥(北)に命婦稲荷神社がいらっしゃいます。
御祭神は、稲荷大明神です。
江戸時代初期に、鉄輪塚の脇に伏見稲荷大社から勧請されました。
元々はこの辺りの氏神様でしたが、
どんどん焼けで焼失後明治時代初期に廃社となりました。
(明治維新で、町の小さな祠は大半が壊されました)
昭和時代初期にこちらが再建されましたが、
その際に「鉄輪社」の位置で発掘された石碑をご神体としました。
(ここに鉄輪塚がいらしたことを表す石碑でした)
クリックすれば写真が拡大するのは、ここまでです。

命婦稲荷神社の前で、路地を東に向いています。
では、ここから路地を出ます。

路地を出て、堺町通で北を向いています。
約50m先に、第24回ブログで散策した松原通があります。

「松原堺町」の辻に、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいます。
こちらは、第24回ブログでも紹介しました。
自分が昔読んだ本に「鉄輪」の後日譚が載っていました。
(民俗学の本で、「鬼」について書かれてものです)
その本によると、「鉄輪の女」は死後鬼女となり
「五条堺町」辻のお地蔵さんの前で人を襲って食べていたそうです。
それを渡辺綱が退治したというお話です。
当時の五条通は今の松原通なので、
当時の「五条堺町」の辻は今のこの位置に当たります。
ただ、その本以外にはその記述はどこにもなく
「後世の人々が、適当に作ったお話」
というのが本当のところでしょうね。
その証拠に、この近所にはそのような話は伝わっていません。

命婦稲荷神社の前で、堺町通を南に向きました。
では、ここを進みます。

命婦稲荷神社の前から、堺町通を南に約50m進みました。
ここで、万寿寺通と交差します。

堺町通から、万寿寺通を西に向いています。
先程から、町屋の軒先に咲くアジサイがきれいですね。
この写真は、クリックすると拡大されます。

堺町通から、万寿寺通を西へ約50m進みました。
「万寿寺高倉」の辻に、再び戻ってきました。
ここからまた高倉通を北上するわけですが、
もうだいぶ写真を貼り付けたので、今回はここまでです。
~次回は、ここから仏光寺通まで進みます~

高倉通を北に向き、五条通を見ています。
五条通以北の高倉通周辺には前回ブログ以上に京町家が建ち並び、
その脇に何本も路地が伸びています。
今回はそのうちの1本にお邪魔して、命婦稲荷神社にお参りします。
謡曲「鉄輪(かなわ)」の舞台で、丑三つ参り発祥関連神社ですね。
撮影日は、2016年6月30日木曜日午後3時半。
梅雨真っ盛りでしたが、この日は珍しく雨が降りませんでした。

五条通に向かう前に、高倉通を東に向きます。
こちらは、浄運院という寺院です。
安土桃山時代に、光誉尊浄によって建立されました。
江戸時代に東本願寺の学寮だったのですが、
現在は浄土宗の寺院です。
境内は広く弁財天堂もいらっしゃいますが、
今回はこちらには立ち寄りません。

再び高倉通から北を向き、五条通を見ています。
では、その五条通に向かいます。

高倉通から、五条通南側歩道を東に向いています。
目の前に、石製鳥居がありますね。

こちらが、その石製鳥居です。
鳥居の扁額には、「千喜万悦天満宮」と書かれています。
こちらの祠がその天満宮で、まずはこちらにお参りです。
その祠の南側から奥に入ることができ、
そちらは第108回ブログでも訪問した西念寺です。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

鳥居の前の駐車場に、こちらの看板がいらっしゃいました。
今年(2016年)に入ってこの駐車場付近にカフェができ、
そことの絡みで作られたのでしょうか?
この写真も、クリックすれば拡大されます。

西念寺は東西に細長い寺院で、向こうの竹垣の辺りまで続きます。
その向こう(東)側は「和食さと」というファミリーレストランで、
さらに向こう側に焼肉屋の「じゅうじゅうカルビ」が隣接します。
さて、目の前に歩道橋があります。
高倉通にも横断歩道がありますが、今回はこちらを渡ります。

歩道橋に上り、五条通の南側を見ています。
竹垣越し(南側)に、西念寺の墓地が見えますね。
そのさらに南側は、浄運院の墓地も見えます。
その東側も「和食さと」と「じゅうじゅうカルビ」の店舗越しに、
墓地が延々と続いています。
(「和食さと」の建物で、ここからは見えません)
オフィスビルや看板・塀で五条通からは直接見えませんが、
高倉通~河原町通間の五条通以南には墓地が延々と続きます。
……こう書くと蓮台野や六原といった霊場か何かのようですが、
そんな深い理由があるわけではありません。
寺町通が五条通で途切れてしまうので、
五条通以南はこの辺りに小さな寺院が集中します。
(第109回ブログも参照してください)
ここは、それらの寺院の墓地が広がっているだけです。
この写真も、クリックすると拡大されます。

歩道橋の上から、五条通を西に向いています。
五条通は、京都ではいちばん広い6車線の道です。
しかも、中央に大きな緑地帯まであります。
また東山~堀川通間の五条通は、国道1号線の一部です。
ここを約350m進むと、「五条烏丸」交差点です。
(第212回ブログを参照)

今度は、同じ場所で五条通を西に向きました。
こちら側から見ても、五条通は広いですね。
五条通は東大路まで伸びていて、
そこから東は「乙羽トンネル」となって山科方面に抜けます。
(国道1号線の道順です)
写真の中央に赤い寺院があるのですが、よく見えませんね。
(レンズ越しではなく肉眼なら、はっきりと見えます)

そこで、カメラをズームしてみました。
こちらの赤い建物は、清水寺の多宝塔です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

歩道橋で、北側を見ています。
では、ここから五条通北側歩道に向かいます。

歩道橋で五条通を渡って、東を向いています。
ここから北に、堺町通が伸びています。
今回ブログのメイン命婦稲荷神社はこの道沿いなのですが、
「高倉通編」の途中なのでここを通りません。

今度は、五条通北側歩道で西を向きました。
目の前に、高倉通との交差点があります。
堺町通側よりも、賑やかですね。

歩道橋を下りると、目の前が「五条高倉」交差点です。
交差点の北東角には100円ショップがあって、
北西角にはドラッグストアがあります。
さらにドラッグストアの西隣は、フレスコ五条店です。
(自転車が、たくさん駐輪している辺りです)
24時間営業の地域スーパーですね。
自分も、会社からの帰りに時々立ち寄ります。
(京都駅から、真夜中に自転車で遠回りします)
これらの店舗があるので、この交差点はとても賑やかです。

五条通から、高倉通を北に向いています。
では、ここを北上していきます。

五条通から、高倉通を北上しています。
左(西)側に、旅館と民家が並んでいます。
どちらも古い京町家ですね。
この写真は、クリックすると拡大されます。

その向かい(東)側も、京町屋が並んでいます。
先述の通り、この辺りは特に京町屋が集中する地域の一つです。
町屋の1F部分の扉の向こうに、路地が続いています。
おそらくその奥にも、小さな京町屋が並んでいます。
これが、自分が小さいころに京都市街地中で見た光景です。
この辺は、それがまだ残っていますね。
この写真も、クリックすると拡大されます。

さらに5mほど北に進んでも、西側にまた京町屋が並んでいます。
こちらの町屋にも、路地が付いていますね。
やはり、奥にまた町家が並んでいます。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

その辺りで、高倉通を北に向いています。
この辺りは、道の両側に京町屋が林立しています。
この先(五条通から北に約120m先)に、東西に伸びる道があります。
あちらが、万寿寺通です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、万寿寺通を東に向いてます。
万寿寺通は、ここから約400m先の
「寺町河原町」交差点まで伸びています。
(写真で見える突き当りにあるビル周辺が、河原町通です)
第396回ブログ地点では、
高倉通と河原町通は100mも離れていなかったのですが……
では、ここから東に進みます。

高倉通から、万寿寺通を東に約25m進みました。
北側に、こちらの居酒屋さんがありました。
だんだん四条の繁華街が近づいて、飲食店の割合も増えてきました。
こちらのお地蔵さんにもお参りして、先に進みます。

高倉通から、万寿寺通を東に約50m進みました。
ここで、万寿寺通は堺町通と交差します。
現在の万寿寺通は「寺町河原町」交差点付近で突き当たりますが、
中世のころはさらに東に伸びており、鴨川に橋も架かっていました。
そこから東に現在は六波羅裏門通が伸びていますが、
そこも中世は万寿寺通でした。

万寿寺通から、堺町通を北に向いています。
辻の北西角にも、京町屋があります。
軒先のアジサイが、見事ですね。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

万寿寺通から、堺町通を北に進んでいます。
右(東)側に、こちらの京町屋の民家が見えます。
その右(南)側に門が見えますが、
こちらは浄土真宗大谷派大念寺という小さな寺院です。

万寿寺通から、堺町通を北に約50m進みました。
左(西)側に、「林亀商店」があります。
こちらは、タオルや手拭い・布巾の卸問屋です。
少し北にある松原通周辺は、問屋街になっています。
(第24回ブログ参照)

その「林亀商店」の南側に、路地への入り口があります。
この扉は夜間は閉まってしまいますが、昼間は中に入れます。
この奥に、今回ブログのメイン命婦稲荷神社がいらっしゃいます。
路地裏の神社は、第72回ブログに出てきた合槌稲荷大明神以来です。

扉をかけて、西を向いています。
路地は西に約20m伸びていて、そこから少し南に折れています。
そして、この路地のあちこちに町屋の入り口が並んでいます。
お気づきの方も多いでしょうが、ここは私有地です。
路地内の住民のご厚意で、お参りが許されている場所です。
ですから、他の神社以上に常識とマナーが必要になります。

堺町通から、路地を西に約15m進みました。
すると、右(北)側に、赤い鳥居が見えてきました。
こちらが、命婦稲荷神社です。

命婦稲荷神社は、路地内の6畳ほどの広場にいらっしゃいます。
鳥居をくぐり左(西)側に、こちらの手水舎があります。
後ろの表札で、この水を飲むことと持ち帰ることを禁じています。
これは、後述のご利益のためです。
ここ以降、神社境内の写真はクリックすると拡大されます。

鳥居の右(東)側には、井戸があります。
こちらが、「鉄輪(かなわ)の井戸」です。
「悪縁を断ち切る縁切りの井戸水」と言われて、
一時期多くの参拝者がいらっしゃいましたが、
現在は枯れていて井戸水はありません。
(これが、先述の手水舎の表札の理由です)
昔ながらの京都の路地には、このような広場に井戸があります。
自分も子供のころは、近所の路地に入り込んでよく遊びました。
その時点ですでに井戸は使われていませんでしたが、
1980年代の「バブル景気」以前は
まだこのような井戸も路地も残っていました。
それが今では大半が取り壊されて、ホテルやマンションです。

「鉄輪の井戸」の北側に、「鉄輪神社」がいらっしゃいます。
こちらは命婦稲荷神社のご神体の石碑発見現場です。
謡曲「鉄輪」は、先妻が疎遠になった夫と後妻を
丑三つ参りで呪い殺そうとするお話です。
謡曲では陰陽師安倍晴明と鉄輪の女(先妻)が対決して
女の呪いを晴明が退けて終わります。
ただ、この辺りの伝承では続きがあって
その後ここで女の死体が発見されます。
井戸の中に身を投げていたという説と
井戸端(まさにここです)で
血を吐いて死んでいたという説があります。
その女のために「鉄輪塚」が建てられたのですが、
1864年のどんどん焼けで焼失しました。
(祇園祭の山鉾と同じですね)
1935年に、ここに「鉄輪塚」があったことを指す石碑が発掘され、
そのことでここに「鉄輪社」が建ちました。

そして、その奥(北)に命婦稲荷神社がいらっしゃいます。
御祭神は、稲荷大明神です。
江戸時代初期に、鉄輪塚の脇に伏見稲荷大社から勧請されました。
元々はこの辺りの氏神様でしたが、
どんどん焼けで焼失後明治時代初期に廃社となりました。
(明治維新で、町の小さな祠は大半が壊されました)
昭和時代初期にこちらが再建されましたが、
その際に「鉄輪社」の位置で発掘された石碑をご神体としました。
(ここに鉄輪塚がいらしたことを表す石碑でした)
クリックすれば写真が拡大するのは、ここまでです。

命婦稲荷神社の前で、路地を東に向いています。
では、ここから路地を出ます。

路地を出て、堺町通で北を向いています。
約50m先に、第24回ブログで散策した松原通があります。

「松原堺町」の辻に、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいます。
こちらは、第24回ブログでも紹介しました。
自分が昔読んだ本に「鉄輪」の後日譚が載っていました。
(民俗学の本で、「鬼」について書かれてものです)
その本によると、「鉄輪の女」は死後鬼女となり
「五条堺町」辻のお地蔵さんの前で人を襲って食べていたそうです。
それを渡辺綱が退治したというお話です。
当時の五条通は今の松原通なので、
当時の「五条堺町」の辻は今のこの位置に当たります。
ただ、その本以外にはその記述はどこにもなく
「後世の人々が、適当に作ったお話」
というのが本当のところでしょうね。
その証拠に、この近所にはそのような話は伝わっていません。

命婦稲荷神社の前で、堺町通を南に向きました。
では、ここを進みます。

命婦稲荷神社の前から、堺町通を南に約50m進みました。
ここで、万寿寺通と交差します。

堺町通から、万寿寺通を西に向いています。
先程から、町屋の軒先に咲くアジサイがきれいですね。
この写真は、クリックすると拡大されます。

堺町通から、万寿寺通を西へ約50m進みました。
「万寿寺高倉」の辻に、再び戻ってきました。
ここからまた高倉通を北上するわけですが、
もうだいぶ写真を貼り付けたので、今回はここまでです。
~次回は、ここから仏光寺通まで進みます~
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