第634回 元梛神社 節分祭~壬生節分散策2019~その1
2019年も節分の季節になりました。旧暦の大晦日ですね。
中国や韓国では旧暦の正月も祝いますが、
京都では節分の方を祝い、(割と昔の風習が残っています)
各神社仏閣でさまざまな行事を行います。
「京の道 今日の道」でも毎年節分になるとあちこち取材しますが、
2019年は上千本(千本釈迦堂・千本ゑんま堂など)と共に
このブログでもよく行く「壬生」をまた散策します。

京都駅前北側市バスターミナルから26系市バスに乗り、
烏丸通を北上した後四条通を西に進み、
「壬生寺道」バス停で下りました。
元々このバス停は「四条坊城」交差点にありましたが、
今はそちらより西に約50mずれています。
こちらは、そのバス停辺りで四条通を西に向いています。
バス停前にたくさんの方々がいらして、
その前で京都市交通局の職員さんが整理されています。
ずっと向こうに(千本通付近に)、JR嵯峨野線の高架が見えます。
(第322回ブログを参照)
今回は、バス停近くの「元祇園 梛神社」に向かいます。
撮影日は、2019年2月3日日曜日午後1時10分。
曇り空から雨が降りそうでした。

「壬生寺道」バス停前で、四条通を西に向きました。
バス停から約50m先で、四条通は坊城通と交差します。
この坊城通沿いが壬生で一番賑やかな場所で、
節分散策もこの坊城通がメインストリートです。
ただその坊城通を南下する前に、
先に手前(西側)の神社に参拝します。

こちらが、その神社です。
石製鳥居の両脇に碑が2本立ってますが、
こちらに「元祇園 梛神社」「式台 隼神社」が合祀されています。

四条通沿いに、こちらのチラシが貼り付けてありました。
この表題通り、こちらの元梛神社で毎年節分祭が行われています。
壬生の節分散策には、最初にこちらを訪れます。

四条通から石製鳥居をくぐり、こちらの境内に入ってきました。
こちらは元梛神社の社務所なのですが、平日は閉まっています。
その社務所で、巫女さんが神楽を舞われていますね。
以前こちらでは聖護院から来られた修験者が祈祷されていました。
(修験者による祈祷は、第186回ブログ参照)

その境内の北東端で、お焚き上げが行われています。
こちらで、旧年中各家庭で使用されたお札などが焼却されています。
火が点いていて暖かく、周囲で暖を摂られる方もいらっしゃいます。
ただ、煙や煤が顔に掛かるとそこそこ煙たいですね。

境内の北西端に、「式台 隼神社」の本殿がいらっしゃいます。
節分期間中は多くの参拝者が来られるので、
賽銭箱が取り払われて、代わりに白い布が敷かれています。
その布の上に、お賽銭を納めます。
隼神社は式台社ですので、元は相当大きな神社でした。
延喜式に記載が見られ、日本三代実録という歴史書にも
隼神社の様子が記載されています。
ご祭神は建甕槌命(タケミカヅチノミコト)ですが、
経津主神(フツヌシノカミ)も祀られております。
「隼」は「ハヤクサ」とも読まれ、
瘡(くさ)という皮膚病平癒のご利益があるとされます。
ここから約350m北の「蛸薬師坊城」の辻付近に
元々はいらっしゃいましたが、
1918年にこちらに移されました。
ちなみに毎年11月17日の例祭では、
こちらからその「蛸薬師坊城」の辻間を
氏子衆が新撰組の扮装で往復されます。
(第323回ブログでの聞き取り内容です)

隼神社の南隣に、「元祇園 梛神社」本殿がいらっしゃいます。
こちらも賽銭箱が取り払われ、白い布が敷かれています。
こちらは平安時代初期(869年)に京都で天然痘が流行した際、
兵庫県の神社から牛頭天王の魂を勧請したのがその興りです。
そして、その魂の分霊を今の祇園に遷し八坂神社を創建しました。
(祇園祭の発祥は、元梛神社説と
第58回ブログの八坂御供社説があります)
ですからこちらが元々の祇園(牛頭天王を祀る場所)ですので、
それが「元祇園社」という名称の謂れです。
八坂神社創建後、跡地には祠が立ちましたが
その一連の場所はこの位置ではなく
「京都市下京区万寿寺通烏丸西入ル御供石町」で、
こちらには1932年に移転してきました。
祠がこのように神社化されたのは、その後です。
そのような訳でこちらのご祭神は素戔嗚尊ですが、
中国に渡った際に牛頭天王と名乗ったと社伝に載っています。

元梛神社本殿前から、境内を東に向いています。
社務所前(神楽の前)で、お守りやお札が売られていました。
では、その先の境内東側鳥居からこちらを出ます。

こちらの境内を出ると、すぐに坊城通に出ます。
先程の石製鳥居をくぐり、坊城通を北に向いています。
約10m先で、坊城通は四条通と交差します。

今度は、同じ位置から坊城通を南に向きました。
節分の際の坊城通は人通りが多いので、ずっと露店が立ちます。
そちらには、後で寄ります。

坊城通の露店は、四条通から約30m南下するといったん途切れます。
それは、こちらに踏切があるからです。

約1分待っていると、西から東へ京福電車(嵐電)の車両が来ました。
生八つ橋の一種「夕子」の広告のラップ電車ですね。

京福電車(嵐電)の車両は2連結しかありませんが、線路は複線です。
ちょうど10分ごとに電車が出ていてとても便利なので、
見た目以上に利用者が多いのが特徴です。
こちらは東に約400m進み、終点の「四条大宮」駅に至ります。

その踏切の上で、坊城通を南を向きました。
約10m先から、また露店が並びだしていますね。

こちらは、先程の写真にも写っていました。
民家の前と家の中で、雑貨を販売されています。
散策されている多くの方々が、こちらで買われていかれました。
10日ゑびすでは小売店舗が露店を出した例もありましたが、
民家がこのような露店を出すのは珍しいですね。

その民家より南は、また露店が立たないスペースが続きます。
左(東)側駐車場の南側が綾小路で、その辻に「幸福堂」があります。
きんつばの専門店ですが、夏季には水無月が売られます。
(きんつばは第188回ブログ、水無月は第321回ブログ参照)

坊城通から、綾小路を東に向いています。
こちらの辻に、旧前川邸があります。
元々は豪農の前川氏の邸宅だったのですが、
江戸時代末期新撰組に接収されてしまいました。
こちらには、帰り道に立ち寄ります。

今度は坊城通から、綾小路を西に向きました。
「幸福堂」の行列が、こちら側まで続いていますね。

さらに綾小路から、坊城通を南に向きました。
左(東)側が旧前川邸で、右(西)側が鶴屋という和菓子屋さんです。
その鶴屋の駐車場の前にシートが張ってあり、
その前に七味唐辛子の露店が立っていますね。

その南側に、虫籠窓の付いた町家が建っています。
こちらが、和菓子屋さんの鶴屋です。
この鶴屋を経営しておられるのが八木家の方々で、
その八木家邸宅に江戸時代末期新撰組がいました。
つまり、こちらが江戸時代末期の新撰組屯所跡です。
奥の京町家が京都市指定文化財で、
学芸員の解説付きでそちらを拝観することができます。
そちらにも、帰り道に立ち寄ります。

和菓子屋さんの鶴屋の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側が後述の新徳禅寺で、右(西)側が壬生寺です。
この辺りから、また露店が濃密に並びだします。

綾小路から、坊城通を約50m南下しました。
こちらで、新徳禅寺の門前に出ます。

こちらが、正面から見た新徳禅寺です。
1863年に14代将軍徳川家茂上洛の際、浪士組を結成した清川八郎が
その家茂の護衛名目でこの新徳禅寺で寝泊まりしました。
その際清川八郎は倒幕を主張し、それに反発した
近藤勇や芹沢鴨らが浪士組を脱退し、後の新撰組を結成しました。
ですから、ある意味こちらが新撰組発祥の地です。

その新徳禅寺の門前に、(先程写っていた唐揚げの露店の南隣)
タイ焼きの露店が出ていました。
お客さんが多くて、露店そのものの写真は撮れませんでした。
小豆餡以外にカスタードクリームなどの種類がありましたが、
自分はタイ焼きは小豆餡と決めています。
こちらは、尾までしっかり餡が入っていました。
では120円支払って、こちらを頂きます。

新徳禅寺の門前で、坊城通を南に向きました。
この辺りが一番露店が立て込んでいて、参拝者が多いですね。
次は、左(東)側に見えるブルーシートの露店に向かいます。

こちらが、そのブルーシートの露店です。
こちらでは素焼きの皿が売られていて、
その皿に購入者がいろいろ文字を書かれていました。

こちらが、その素焼きの皿です。
正確には焙烙(ほうらく)と呼ばれる調理器具です。
壬生寺ではこの裏側に自分の願い事を記して、
その後叩き割ることでその願いが叶うとされています。

そのブルーシートの露店の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側に京町家の武家屋敷跡が建っていますが、
こちらが京都清宗根付館です。
第319回ブログでこちらに訪れました。
また、こちらは元は武家の神先家邸宅で
最も保存状態が良い京町家の武家邸宅です。
ですから、こちらは京都市指定文化財に指定されています。

さらにブルーシートの露店前で、坊城通を西に向きました。
こちらから、壬生寺に入れます。
ここから壬生寺に参拝しますが、もうだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。
~次回は、この壬生寺に参拝します~
中国や韓国では旧暦の正月も祝いますが、
京都では節分の方を祝い、(割と昔の風習が残っています)
各神社仏閣でさまざまな行事を行います。
「京の道 今日の道」でも毎年節分になるとあちこち取材しますが、
2019年は上千本(千本釈迦堂・千本ゑんま堂など)と共に
このブログでもよく行く「壬生」をまた散策します。

京都駅前北側市バスターミナルから26系市バスに乗り、
烏丸通を北上した後四条通を西に進み、
「壬生寺道」バス停で下りました。
元々このバス停は「四条坊城」交差点にありましたが、
今はそちらより西に約50mずれています。
こちらは、そのバス停辺りで四条通を西に向いています。
バス停前にたくさんの方々がいらして、
その前で京都市交通局の職員さんが整理されています。
ずっと向こうに(千本通付近に)、JR嵯峨野線の高架が見えます。
(第322回ブログを参照)
今回は、バス停近くの「元祇園 梛神社」に向かいます。
撮影日は、2019年2月3日日曜日午後1時10分。
曇り空から雨が降りそうでした。

「壬生寺道」バス停前で、四条通を西に向きました。
バス停から約50m先で、四条通は坊城通と交差します。
この坊城通沿いが壬生で一番賑やかな場所で、
節分散策もこの坊城通がメインストリートです。
ただその坊城通を南下する前に、
先に手前(西側)の神社に参拝します。

こちらが、その神社です。
石製鳥居の両脇に碑が2本立ってますが、
こちらに「元祇園 梛神社」「式台 隼神社」が合祀されています。

四条通沿いに、こちらのチラシが貼り付けてありました。
この表題通り、こちらの元梛神社で毎年節分祭が行われています。
壬生の節分散策には、最初にこちらを訪れます。

四条通から石製鳥居をくぐり、こちらの境内に入ってきました。
こちらは元梛神社の社務所なのですが、平日は閉まっています。
その社務所で、巫女さんが神楽を舞われていますね。
以前こちらでは聖護院から来られた修験者が祈祷されていました。
(修験者による祈祷は、第186回ブログ参照)

その境内の北東端で、お焚き上げが行われています。
こちらで、旧年中各家庭で使用されたお札などが焼却されています。
火が点いていて暖かく、周囲で暖を摂られる方もいらっしゃいます。
ただ、煙や煤が顔に掛かるとそこそこ煙たいですね。

境内の北西端に、「式台 隼神社」の本殿がいらっしゃいます。
節分期間中は多くの参拝者が来られるので、
賽銭箱が取り払われて、代わりに白い布が敷かれています。
その布の上に、お賽銭を納めます。
隼神社は式台社ですので、元は相当大きな神社でした。
延喜式に記載が見られ、日本三代実録という歴史書にも
隼神社の様子が記載されています。
ご祭神は建甕槌命(タケミカヅチノミコト)ですが、
経津主神(フツヌシノカミ)も祀られております。
「隼」は「ハヤクサ」とも読まれ、
瘡(くさ)という皮膚病平癒のご利益があるとされます。
ここから約350m北の「蛸薬師坊城」の辻付近に
元々はいらっしゃいましたが、
1918年にこちらに移されました。
ちなみに毎年11月17日の例祭では、
こちらからその「蛸薬師坊城」の辻間を
氏子衆が新撰組の扮装で往復されます。
(第323回ブログでの聞き取り内容です)

隼神社の南隣に、「元祇園 梛神社」本殿がいらっしゃいます。
こちらも賽銭箱が取り払われ、白い布が敷かれています。
こちらは平安時代初期(869年)に京都で天然痘が流行した際、
兵庫県の神社から牛頭天王の魂を勧請したのがその興りです。
そして、その魂の分霊を今の祇園に遷し八坂神社を創建しました。
(祇園祭の発祥は、元梛神社説と
第58回ブログの八坂御供社説があります)
ですからこちらが元々の祇園(牛頭天王を祀る場所)ですので、
それが「元祇園社」という名称の謂れです。
八坂神社創建後、跡地には祠が立ちましたが
その一連の場所はこの位置ではなく
「京都市下京区万寿寺通烏丸西入ル御供石町」で、
こちらには1932年に移転してきました。
祠がこのように神社化されたのは、その後です。
そのような訳でこちらのご祭神は素戔嗚尊ですが、
中国に渡った際に牛頭天王と名乗ったと社伝に載っています。

元梛神社本殿前から、境内を東に向いています。
社務所前(神楽の前)で、お守りやお札が売られていました。
では、その先の境内東側鳥居からこちらを出ます。

こちらの境内を出ると、すぐに坊城通に出ます。
先程の石製鳥居をくぐり、坊城通を北に向いています。
約10m先で、坊城通は四条通と交差します。

今度は、同じ位置から坊城通を南に向きました。
節分の際の坊城通は人通りが多いので、ずっと露店が立ちます。
そちらには、後で寄ります。

坊城通の露店は、四条通から約30m南下するといったん途切れます。
それは、こちらに踏切があるからです。

約1分待っていると、西から東へ京福電車(嵐電)の車両が来ました。
生八つ橋の一種「夕子」の広告のラップ電車ですね。

京福電車(嵐電)の車両は2連結しかありませんが、線路は複線です。
ちょうど10分ごとに電車が出ていてとても便利なので、
見た目以上に利用者が多いのが特徴です。
こちらは東に約400m進み、終点の「四条大宮」駅に至ります。

その踏切の上で、坊城通を南を向きました。
約10m先から、また露店が並びだしていますね。

こちらは、先程の写真にも写っていました。
民家の前と家の中で、雑貨を販売されています。
散策されている多くの方々が、こちらで買われていかれました。
10日ゑびすでは小売店舗が露店を出した例もありましたが、
民家がこのような露店を出すのは珍しいですね。

その民家より南は、また露店が立たないスペースが続きます。
左(東)側駐車場の南側が綾小路で、その辻に「幸福堂」があります。
きんつばの専門店ですが、夏季には水無月が売られます。
(きんつばは第188回ブログ、水無月は第321回ブログ参照)

坊城通から、綾小路を東に向いています。
こちらの辻に、旧前川邸があります。
元々は豪農の前川氏の邸宅だったのですが、
江戸時代末期新撰組に接収されてしまいました。
こちらには、帰り道に立ち寄ります。

今度は坊城通から、綾小路を西に向きました。
「幸福堂」の行列が、こちら側まで続いていますね。

さらに綾小路から、坊城通を南に向きました。
左(東)側が旧前川邸で、右(西)側が鶴屋という和菓子屋さんです。
その鶴屋の駐車場の前にシートが張ってあり、
その前に七味唐辛子の露店が立っていますね。

その南側に、虫籠窓の付いた町家が建っています。
こちらが、和菓子屋さんの鶴屋です。
この鶴屋を経営しておられるのが八木家の方々で、
その八木家邸宅に江戸時代末期新撰組がいました。
つまり、こちらが江戸時代末期の新撰組屯所跡です。
奥の京町家が京都市指定文化財で、
学芸員の解説付きでそちらを拝観することができます。
そちらにも、帰り道に立ち寄ります。

和菓子屋さんの鶴屋の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側が後述の新徳禅寺で、右(西)側が壬生寺です。
この辺りから、また露店が濃密に並びだします。

綾小路から、坊城通を約50m南下しました。
こちらで、新徳禅寺の門前に出ます。

こちらが、正面から見た新徳禅寺です。
1863年に14代将軍徳川家茂上洛の際、浪士組を結成した清川八郎が
その家茂の護衛名目でこの新徳禅寺で寝泊まりしました。
その際清川八郎は倒幕を主張し、それに反発した
近藤勇や芹沢鴨らが浪士組を脱退し、後の新撰組を結成しました。
ですから、ある意味こちらが新撰組発祥の地です。

その新徳禅寺の門前に、(先程写っていた唐揚げの露店の南隣)
タイ焼きの露店が出ていました。
お客さんが多くて、露店そのものの写真は撮れませんでした。
小豆餡以外にカスタードクリームなどの種類がありましたが、
自分はタイ焼きは小豆餡と決めています。
こちらは、尾までしっかり餡が入っていました。
では120円支払って、こちらを頂きます。

新徳禅寺の門前で、坊城通を南に向きました。
この辺りが一番露店が立て込んでいて、参拝者が多いですね。
次は、左(東)側に見えるブルーシートの露店に向かいます。

こちらが、そのブルーシートの露店です。
こちらでは素焼きの皿が売られていて、
その皿に購入者がいろいろ文字を書かれていました。

こちらが、その素焼きの皿です。
正確には焙烙(ほうらく)と呼ばれる調理器具です。
壬生寺ではこの裏側に自分の願い事を記して、
その後叩き割ることでその願いが叶うとされています。

そのブルーシートの露店の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側に京町家の武家屋敷跡が建っていますが、
こちらが京都清宗根付館です。
第319回ブログでこちらに訪れました。
また、こちらは元は武家の神先家邸宅で
最も保存状態が良い京町家の武家邸宅です。
ですから、こちらは京都市指定文化財に指定されています。

さらにブルーシートの露店前で、坊城通を西に向きました。
こちらから、壬生寺に入れます。
ここから壬生寺に参拝しますが、もうだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。
~次回は、この壬生寺に参拝します~
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