第680回 さて、どこの正面?~正面通東から西~その1
今回は本編に写真はありません。(その分「追記」に写真があります)
前回ブログで自分のリハリビの取材を終えました。
ですから、今回からようやく新しい道を進んでいきます。
今回から、正面通を紹介します。
敢えてこの道を選んだ理由は、いくつかあります。
1.ウチの近所の道のため
2.とても短い道のため
3.狭い道の割に、観光名所が多いため
理由の1と2は、自分が患った脳出血が原因です。
いま自分で運転する乗り物をお医者さんより禁止されているので、
(自転車や自動車など、自分で判断して運転する乗り物は厳禁です)
徒歩しか移動手段はありません。
(電車やバスなどの移動は可能ですが、
どの道も公共の交通機関から外れてしまう箇所があります)
その点、正面通はウチの近所で
端から端までウチからは徒歩圏内です。
もちろん他の道でその条件に当てはまるものもあるのですが、
その中でもこの正面通は極端に観光地に恵まれています。
しかも商店街も何ヵ所かあり、なかなか変化に富んだ道です。
大通りの中間点
正面通は、京都市東山区から京都市下京区にかけての道です。
6車線の五条通と4車線の七条通の中間に位置するため、
南北の道を進む市バスの停留所の目安になっています。
(「河原町正面」バス停など)
ちなみに正面通の約100m北に六条通も存在しますが、
そちらはとても短いので、正面通の方が基準の道になります。
豊臣秀吉による大仏殿の正面
正面通は、豊臣秀吉による京都再区画の際に誕生した道です。
つまり794年の平安京遷都の際には、存在しなかった道です。
1467年の応仁の乱で京都市街地はいったん荒廃しました。
その後京都市街地は豊臣秀吉の再開発を経て
その後徳川家康によって京都市街地東部がさらに開発されました。
(河原町通や五条通以南の木屋町通、祇園は、その際できました)
それが、現在の京都市街地の原型です。
(要するに、数百年京都市街地は大きくは変わっていません)
豊臣秀吉は戦国時代に焼け落ちた奈良の東大寺に代わる
新しい大仏殿を京都に建てようとしました。
そしてその大仏殿と豊国廟(豊臣秀吉のお墓)の正門の正面に、
1本の参道を新たに敷設しました。
それが、現在の正面通の原型です。
豊国神社の正面
豊臣秀吉が建設した大仏殿は南は現在の三十三間堂、
北は現在の方広寺ととても広いものでした。
そして当時の正門から真西に伸びた道が、正面通です。
この正門の位置に、現在の豊国神社の鳥居が立っています。
ですから、正面通は豊国神社の正面から西に伸びた道です。
その周辺は正面通沿いに百日紅(さるすべり)並木が続き、
「耳塚」や専定寺など豊国神社に関わる施設が建っています。
正面通は初め4車線ですが、本町通以西は商店街が続き
道幅も自動車がやっと1台通れる道幅に変わります。
高瀬川周辺は桜の名所
やがて鴨川に架かる正面橋を越えると、
京都市東山区から京都下京区に移ります。
そこからも小規模な商店街が続きますが、
高瀬川に架かる正面小橋周辺が京都市街地屈指の桜の名所です。
(第647回ブログなどウチのブログでも何度も紹介しました)
特に、正面児童公園の大桜が素晴らしいですね。
正面通は、正面児童公園より約50m西の河原町通で
いったん突き当たります。
渉成園と東本願寺正面の道
河原町通で正面通が突き当たるのは、渉成園の塀があるためです。
渉成園の西側に回り込みますと、
その渉成園の正門の正面から、また正面通が西に伸びています。
その辺りの正面通は東本願寺の門前町を形成していて、
東本願寺の御影門前で再び正面通は突き当たります。
ご縁まちと西本願寺
東本願寺でまた突き当たった正面通は、
東本願寺の西端より少し西の新町通でさらに西に伸びています。
その辺りからの正面通は元々は西本願寺の寺領(寺院の領地)で、
仏具店が多い門前町を形成しています。
こちらを特に「ご縁まち」と呼んでいます。
要するに、仏具店が多く並ぶ商店街ですね。
さらに正面通は、西本願寺御影門で突き当たります。
そして、島原へ
西本願寺の西側の大宮通沿いで、
正面通はまたまた復活します。
そこからは、元花街の島原を通ります。
このブログでは何度も島原を紹介したのですが、
いづれも花屋町通沿いでした。
正面通は島原の最南端に位置し、
この正面通より北の道に島原地区を表す石畳が敷かれます。
そして、そのまま西に進んだ後千本通で最終的に突き当たります。
では、次回から正面通近くを取材していきます。
前回ブログで自分のリハリビの取材を終えました。
ですから、今回からようやく新しい道を進んでいきます。
今回から、正面通を紹介します。
敢えてこの道を選んだ理由は、いくつかあります。
1.ウチの近所の道のため
2.とても短い道のため
3.狭い道の割に、観光名所が多いため
理由の1と2は、自分が患った脳出血が原因です。
いま自分で運転する乗り物をお医者さんより禁止されているので、
(自転車や自動車など、自分で判断して運転する乗り物は厳禁です)
徒歩しか移動手段はありません。
(電車やバスなどの移動は可能ですが、
どの道も公共の交通機関から外れてしまう箇所があります)
その点、正面通はウチの近所で
端から端までウチからは徒歩圏内です。
もちろん他の道でその条件に当てはまるものもあるのですが、
その中でもこの正面通は極端に観光地に恵まれています。
しかも商店街も何ヵ所かあり、なかなか変化に富んだ道です。
大通りの中間点
正面通は、京都市東山区から京都市下京区にかけての道です。
6車線の五条通と4車線の七条通の中間に位置するため、
南北の道を進む市バスの停留所の目安になっています。
(「河原町正面」バス停など)
ちなみに正面通の約100m北に六条通も存在しますが、
そちらはとても短いので、正面通の方が基準の道になります。
豊臣秀吉による大仏殿の正面
正面通は、豊臣秀吉による京都再区画の際に誕生した道です。
つまり794年の平安京遷都の際には、存在しなかった道です。
1467年の応仁の乱で京都市街地はいったん荒廃しました。
その後京都市街地は豊臣秀吉の再開発を経て
その後徳川家康によって京都市街地東部がさらに開発されました。
(河原町通や五条通以南の木屋町通、祇園は、その際できました)
それが、現在の京都市街地の原型です。
(要するに、数百年京都市街地は大きくは変わっていません)
豊臣秀吉は戦国時代に焼け落ちた奈良の東大寺に代わる
新しい大仏殿を京都に建てようとしました。
そしてその大仏殿と豊国廟(豊臣秀吉のお墓)の正門の正面に、
1本の参道を新たに敷設しました。
それが、現在の正面通の原型です。
豊国神社の正面
豊臣秀吉が建設した大仏殿は南は現在の三十三間堂、
北は現在の方広寺ととても広いものでした。
そして当時の正門から真西に伸びた道が、正面通です。
この正門の位置に、現在の豊国神社の鳥居が立っています。
ですから、正面通は豊国神社の正面から西に伸びた道です。
その周辺は正面通沿いに百日紅(さるすべり)並木が続き、
「耳塚」や専定寺など豊国神社に関わる施設が建っています。
正面通は初め4車線ですが、本町通以西は商店街が続き
道幅も自動車がやっと1台通れる道幅に変わります。
高瀬川周辺は桜の名所
やがて鴨川に架かる正面橋を越えると、
京都市東山区から京都下京区に移ります。
そこからも小規模な商店街が続きますが、
高瀬川に架かる正面小橋周辺が京都市街地屈指の桜の名所です。
(第647回ブログなどウチのブログでも何度も紹介しました)
特に、正面児童公園の大桜が素晴らしいですね。
正面通は、正面児童公園より約50m西の河原町通で
いったん突き当たります。
渉成園と東本願寺正面の道
河原町通で正面通が突き当たるのは、渉成園の塀があるためです。
渉成園の西側に回り込みますと、
その渉成園の正門の正面から、また正面通が西に伸びています。
その辺りの正面通は東本願寺の門前町を形成していて、
東本願寺の御影門前で再び正面通は突き当たります。
ご縁まちと西本願寺
東本願寺でまた突き当たった正面通は、
東本願寺の西端より少し西の新町通でさらに西に伸びています。
その辺りからの正面通は元々は西本願寺の寺領(寺院の領地)で、
仏具店が多い門前町を形成しています。
こちらを特に「ご縁まち」と呼んでいます。
要するに、仏具店が多く並ぶ商店街ですね。
さらに正面通は、西本願寺御影門で突き当たります。
そして、島原へ
西本願寺の西側の大宮通沿いで、
正面通はまたまた復活します。
そこからは、元花街の島原を通ります。
このブログでは何度も島原を紹介したのですが、
いづれも花屋町通沿いでした。
正面通は島原の最南端に位置し、
この正面通より北の道に島原地区を表す石畳が敷かれます。
そして、そのまま西に進んだ後千本通で最終的に突き当たります。
では、次回から正面通近くを取材していきます。
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