第683回 豊国神社散策~正面通東から西~その4

第681回ブログから2回分を使って京都国立博物館を散策し、
正門を出たところで西を向いています。
目の前で、4車線の大和大路が南北に伸びています。
今回は、博物館の北隣にいらっしゃる豊国神社にお邪魔します。
撮影日は、2019年8月27日火曜日午後3時45分。
今シリーズのメイン正面通がやっと登場します。

京都国立博物館正門の前で、大和大路を南に向いています。
約100m先で、七条通と交差しています。
七条通沿いをたくさんの方々が散策されていますね。

その辺りの大和大路の向かい(西)側を見ています。
この辺りの大和大路と正面通には百日紅並木が、続きます。
時節柄、百日紅(さるすべり)がちょうど満開ですね。
手前の百日紅が白い花を付けていますが、
紅い花が多いので珍しいですね。

同じ位置で、さらに北を向きました。
こちらにも、百日紅並木が続いていますね。
右(東)側に石垣が並んでいますが、
こちらは元々大仏殿のために築かれたものです。
この石垣は北半分は豊国神社のものですが、
南側は京都国立博物館のものです。

京都国立博物館正門から、大和大路を約100m北上しました。
ここで大和大路は、正面通と交差します。

大和大路から、正面通を東に向いています。
正面通はここが最東端で、この辺りでT字路を形成しています。
そして正面通より東に、豊国神社がいらっしゃいます。
こちらには約9ヵ月ぶりで、このブログ5回目の訪問です。

前述の写真中央の石段を上り豊国神社一の鳥居をくぐり、
豊国神社境内で東を向いています。
では、この先に見える豊国神社唐門(重要文化財)に向かいます。

豊国神社唐門に向かう前に、先ほどの写真にも写っていた
手水舎に向かい、自分の手を浄めます。
第149回ブログに掲載した手水舎と様子が違いますね。

豊国神社手水舎には、こちらの紙が貼られていました。
第149回ブログに写した張り紙といつの間にか入れ替わっています。

ようやく豊国神社の手水鉢で、自分の手を浄めます。
こちらの周囲は変わりましたが、
手水舎に設置された手水鉢は自分が幼いころと同じですね。

豊国神社手水舎の前で、東を向きました。
では、こちらから豊国神社唐門に向かいます。

豊国神社唐門の手前(西側)に、こちらの像がいらっしゃいました。
豊国神社のご祭神豊国大明神と言いますか豊臣秀吉の銅像ですが、
前回訪問した9カ月前には明らかにいらっしゃいませんでした。

豊国神社唐門の袂に、こちらの木製「千成瓢箪」が飾られています。
豊臣秀吉が戦で勝つたびに飾った馬印ですね。

豊国神社唐門の真下から、境内を東に向いています。
向こうに拝殿が見えて、さらに約50m先に本殿がいらっしゃいます。
こちらの本殿より東に約100m先に、
安土桃山時代の16世紀末大仏殿が建っていました。
(詳細は、第616回ブログ参照)
さらにそちらより1500m東南東の阿弥陀ヶ峰(日吉ヶ丘)山中に、
豊国廟(豊臣秀吉のお墓)がいらっしゃいます。
ちなみに阿弥陀ヶ峰とは、中世の鳥辺山のことです。
豊国神社は、明治時代に建立されました。
ご祭神は、豊国大明神(豊臣秀吉のこと)です。
16世紀末正面通より北に伸びる渋谷街道から塩小路にかけて、
豊臣秀吉はこの辺り一帯を自分のための一大宗教施設にしました。
この位置は中でも中心施設であった大仏殿境内だったのですが、
17世紀初頭に権力を奪った徳川家康は、
京都をさらに開発する過程でこれら施設の解体を図りました。
三十三間堂は独立した寺院となり、(以後、蓮華法院と称します)
周辺地域に新たに智積院などの寺院を建立しました。
この大仏殿周辺は江戸時代を通して完全に放置され、
その間火災などに合いこの辺りは荒廃の一途を辿りました。
それが明治時代に入るとこの辺の再開発が繰り返され、
北から順に天台宗方広寺(この後に立ち寄ります)、
豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂と生まれ変わりました。

豊国神社唐門前から、境内を南に向きました。
手前に豊国神社宝物殿への入り口がありますが、
時間の関係でそちらは割愛させていただきます。
(宝物殿の詳細は、第149回ブログ参照)
さらにその右(西)側には、こちらの社務所があります。
そして社務所とこちらとの間にある砂利が敷き詰められた場所が、
月極の駐車場です。
自分は自動車を所有していませんが、
今は亡き父がここの駐車場を利用していて、
その関係で自分は幼いころこの辺りでよく遊んでいました。

今度は豊国神社唐門の前で、境内を北を向きました。
次は、そちらに向かいます。
つい約30分前まで豪雨でしたので、(前回ブログ参照)
雨が止んでも石畳の道の周囲の砂利が水浸しですね。

豊国神社本殿北側に、こちらの神社が隣接しています。
朱い鳥居が並んでいるので、こちらが稲荷社と分かります。
ただ本殿を参拝させて頂くと、「槇村大明神」と書かれていました。
もしかすると、「槇村さん」のお墓の址なのでしょうか?
(小さな稲荷社の大半は、元々お墓か死体発見現場です)

朱い鳥居の前で、北を向きました。
目の前の車止めを越えて北上すると、
豊国神社から天台宗の方広寺に移り変わります。

先ほどの位置から北上し、車止めを越えて時点で東を向きました。
ここを東に進むと、方広寺の駐車場の脇を抜ける小径に出ます。
さらにその駐車場を東に抜けると、
先述の大仏殿址公園や馬町に抜ける路地に出ます。
(第616回ブログを参照)

同じ位置で、方広寺境内で北を向いています。
では、目の前の「国家安康の鐘」の鐘楼に向かいます。

こちらが、1614年~1615年の大坂の陣の端緒となった
「方広寺鍾銘事件」の原因となった「国家安康の鐘」の現物です。
(コピーなどではありません。当時鋳造された現物です)
現在の方広寺の僧侶が、
こちらの文字に白墨で印を付けられています。
こちらは、臨済宗大徳寺の塔頭総見院の僧侶古渓宗陳作です。
とても長い漢詩が描かれているのですが、
その中に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていました。
(右下が「国家安康」、左上が「君臣豊楽」)
「国家安康」のうち「家」と「康」を切り離すことで
徳川家康の首を刎ねる呪いをかけたなどと主張して、
方広寺を建立した豊臣氏に対して疑念を持った徳川家康が、
大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。
酷い言い掛かりのようですが、
作者の古渓宗陳が反徳川家康の急先鋒だったことや、
(古渓宗陳はこちらを書いた直後に処刑)
そのような呪いは当時なら日常的に行われていたことから、
あながち冤罪とは言い切れません。

こちらは、「国家安康の鐘」が安置されている鐘楼の天井部です。
少し擦れていますが、飛天を描いた天井画が見事ですね。

飛天を描いた天井画を大写しにしました。
自分は幼いころからこの天井画が大好きで、
何やかんや理由を付けてよくこちらを見に来ていました。

方広寺の「国家安康」の鐘楼から、東を向きました。
この先に、大きな駐車場が見えます。
江戸時代後期、有志の寄付金でここに大仏が再建されていました。
かつてのものよりだいぶ小規模でしたが、
こちらも1973年に漏電が原因で焼失してしまいました。
当時幼稚園児だった自分が、亡き祖父に連れられて
ここまで野次馬で火災の様子を眺めていた記憶があります。

鐘楼の北側に、天台宗方広寺本殿が建っています。
ご本尊は廬舎那仏ですが、(奈良の大仏と同一です)
大仏殿焼失のため足首より下だけになっておられます。
(尤も、別に廬舎那仏がご本尊としていらっしゃいますが……)
こちらは豊臣秀吉による大仏殿の後継寺院で、
江戸幕府は放置し続けましたが、
京都市街の庶民の信仰は集めており、
そのため公式記録では存在しないものの
こちらの寺院自体は小規模ながら存在し続けました。
ただ、いつから大仏殿から方広寺に名称変更になったかは不明です。

その場所で、方広寺境内を西に向きました。
この先に、大和大路が見えますね。
この時点で、また雨が降り出しました。
(先程の写真にも、雨粒が写っていましたね)
ここからでも外に出られますが、(第149回ブログと同じルートです)
あくまで「正面通編」ですので、元の位置に戻ります。

今度は同じ位置で、方広寺境内を北に向きました。
では、方広寺から豊国神社に戻ります。

方広寺から豊国神社に戻ってきて、南に向いています。
ずっと向こうに、豊国神社の社務所が見えますね。
雨が降り出して僅か数分でしたが、もう止んでいますね。

豊国神社手水舎脇まで南下して、西を向きました。
目の前に、先程の豊国神社一の鳥居が建っていますね。

豊国神社一の鳥居の真下で、西を向いています。
こうして見ると、豊国神社から西に
正面通が伸びているのが分かりますね。

豊国神社一の鳥居の真下から石段を下りて、
大和大路から正面通を西に向いています。
つまり、この位置が正面通の最東端です。
では、ここからようやく正面通を西に進むのですが
もうだいぶ写真を貼り付けましたので、
今回はここまでです。
~次回は、この地点から正面通を西に進む、予定です~
スポンサーサイト