第810回 豊国神社に参拝~大黒町通南から北~その2
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前回ブログで、七条通から大黒町通を約200m北上しました。
目の前の耳塚を通り過ぎると、大黒町通は正面通と交差します。
今回は正面通を東に進み、豊国神社に参拝します。
撮影日は、2022年2月26日土曜日午後3時15分。
この日は、ずっと快晴でした。

正面通から、大黒町通を北に向いています。
この辺りの正面通は、中央分離帯のある4車線の道幅です。
一方正面通以北の大黒町通は、むしろ道幅が狭くなります。
交差点の北西角に建つ浄土宗西山檀林派熊谷山専定寺は、
次回ブログで取材します。

今度は大黒町通から、正面通を西に向きました。
正面通は約50m先の本町通で、道幅が狭くなります。
本町通から正面通をさらに西に進むと、
川魚店の大国や甘春堂本店に辿り着けます。

さらに大黒町通から、正面通を東に向いています。
今回ブログはこちらを進み、正面通東端の豊国神社にお邪魔します。

大黒町通から、正面通を東に進んでいます。
こちらが、正面から見た耳塚です。
ここ東山区鴨東地区には、安土桃山時代に豊臣秀吉によって
大仏殿や豊国廟(豊臣秀吉のお墓)を中心に、
一大宗教施設群が建造されました。
この耳塚もその宗教施設群の一部で、
1592年・1597年の文禄・慶長の役での韓国人戦死者の耳を
こちらに葬った一種のお墓です。
豊臣秀吉がこちらを建立した理由は不明ですが、
考えようによってはこちらは韓国人戦死者の戦没碑でもあります。
ですから、現在は日本・韓国両国政府がこちらを整備しています。

耳塚から、正面通を東に向いています。
ここから、正面通の突き当りに向かいます。

耳塚の東隣に、こちらの耳塚児童公園があります。
午後3時半を回り近くの小学生で溢れていたので、
この石碑周辺しか写せません。
こちらは明治時代初期には空き地だったようで、
明治天皇夫妻がこちらまで行幸された際、
昭憲皇后がお疲れになったので休憩された跡です。
その後こちらは京都市立第27区尋常小学校となり、
大正時代になって児童公園となりました。

耳塚児童公園の前で、正面通の向かい(北)側を見ています。
この辺りの正面通には中央分離帯があって、
そこに百日紅(さるすべり)並木が続いています。
ですから、この辺りは毎年8月になると絶景になります。
(第149回ブログ参照)
そのさらに北側に、甘春堂 東店が建っています。
こちらには、次回ブログで立ち寄ります。

大黒町通から、正面通を約50m東に進みました。
ここで、正面通は大和大路で突き当たります。

正面通から、大和大路を北に向いています。
4車線の道ですが、約100m先で1車線一方通行の道になります。
(詳しくは、第224回ブログ参照)

今度は正面通から、大和大路を南に向きました。
約200m先に、前回ブログの「七条大和大路」交差点があります。
この辺の詳細は、第223回ブログ参照)

さらに、大和大路から正面通を東に向きました。
横断歩道の先に、豊国神社がいらっしゃいます。

先程の横断歩道を渡り、東を向いています。
では目の前の石段を上り、豊国神社境内に入ります。

先程の石段を上り豊国神社一の鳥居をくぐり、
豊国神社境内を東に向いています。
ここから、ゆっくり目の前の本殿に向かいます。

一の鳥居前から、豊国神社境内を東に進んでいます。
先ずは、こちらの手水舎に向かいます。

その手水舎を大写しします。
コロナ禍のご時世から、柄杓は取り除かれてます。
金色の瓢箪から出る水で、直接手を清めるようになっています。

豊国神社手水舎の前で、境内を東に向いています。
ここからは、あちらの豊国神社本殿に向かいます。

こちらが、豊国神社本殿です。
ご祭神は、豊国大明神つまり豊臣秀吉です。
東山区鴨東地区は平安時代末期は法住寺殿でしたが、
(後白河上皇の院政が取り仕切られた場所です)
安土桃山時代は「大仏殿」・豊国廟を中心とした
豊臣秀吉による一大宗教施設群でした。
そしてこの豊国神社本殿の位置に、その大仏殿の本堂がありました。
(厳密には、本殿東隣の緑地公園付近)
この神社は、明治時代に「大仏殿」跡に建立された神社です。
ただし、安土桃山時代からその「大仏殿」の鎮守社として
豊国神社という神社はこの辺りにいらっしゃいました。
(ただし江戸時代は、ほぼ廃社状態でした)

その豊国神社本殿の袂に、こちらがいらっしゃいます。
「招福白虎」と書かれていましたが、この近所の
京都芸術工芸大学の学生さんの作品のようです。

豊国神社本殿前から、境内を南に向いています。
駐車場の奥(南側)に、こちらの社務所があります。
左(東)側が宝物殿の入り口ですが、
今回は時間の都合で宝物殿には立ち寄りません。
(宝物殿の詳細は、第149回ブログ参照)

今度は豊国神社本殿前で、境内を北に向きました。
今回は、こちらの方に向かいます。

豊国神社本殿前から、境内を北上しています。
すると、そちらに稲荷社の朱い鳥居が見えてきました。

こちらが、その末社の稲荷社です。
赤い鳥居が続く様子は、稲荷社にはよくある形式ですね。
ただ、社には「槙島大明神」と書かれていました。

その稲荷社の前で、北を向きました。
ただ目の前の車止めを越えると、
豊国神社を出て天台宗方広寺境内に入ります。

先程の車止めを越えて、すぐに右(東)に向いています。
左(北)側は方広寺の鐘楼で、右(南)側が先程の稲荷社です。
このまま東に進むとそのまま路地となって、住宅街に辿り着けます。
そして、その辺りに「大仏殿址緑地公園」があります。
(詳しくは、第616回ブログ参照)

その路地の北側には、方広寺が経営する駐車場があります。
ただ、こちらには江戸時代中期に造営された
廬舎那仏がいらっしゃいました。
それが、1973年に失火により焼失しました。
(自分も野次馬のの一人だったので、よく覚えています)

その駐車場の西側に、天台宗方広寺の本堂があります。
安土桃山時代に豊臣秀吉がこの辺りに建立した大仏殿の後継寺院です。
大仏と言えば奈良市の華厳宗東大寺にいらっしゃる大仏が有名ですが、
安土桃山時代に織田信長によって東大寺は焼失していました。
(その後江戸時代初期に、東大寺は再建)
そのため、豊臣秀吉が京都に廬舎那仏(大仏)を再建しました。
それがこの東山区鴨東地区に広がる一大宗教施設群なのですが、
権力者が変わった江戸時代になると、暫くこの辺りは放置されました。
そのうち肝心の大仏も様々な理由で焼失しました。
その後大仏殿の後継寺院として、
江戸時代半ばにこの方広寺が再建されました。
江戸時代にこの辺りの住民が何度か大仏を再建したのですが、
何度も焼失して現在方広寺に大仏は現存しません。
ですから本殿には決して大きくない廬舎那仏がご本尊としていらして、
さらに焼失した初代の大仏の足の甲だけ残っています。

方広寺本殿の南側に、重要文化財の鐘楼があります。
次は、こちらに向かいます。

こちらが、方広寺鐘楼の鐘です。
現在のご住職が、鐘の一部を白墨で強調されています。
そちらには、「国家安康」「君臣豊楽」と書かれています。
「徳川家康の首を刎ねようと呪いをかけた」と徳川家康が主張し、
それが1614年~1615年の大坂の陣の一因となりました。
(豊臣氏が滅亡した一因ですね)
この鐘は江戸時代はその辺に放置されていましたが、
明治時代に入って豊国神社境内からこちらに置かれました。

方広寺鐘楼の天井部分を撮りました。
天井の板には、このように飛天が描かれています。

さらに、方広寺鐘楼天井に描かれた飛天を写しました。
豊国神社や方広寺境内は、自分が子供のころの遊び場でした。
自分が小学生低学年のころまでは、方広寺の鐘は
50円(子供のお小遣いの金額)を支払えば誰でも鐘を衝けました。
どうもいたずらで鐘が壊れそうな衝き方をした大人がいたようで、
それ以降鐘楼内は立ち入り禁止になっています。
(ここの僧侶ではなく、子供のころ近所の小父さんに聞きました)

方広寺鐘楼を背に、方広寺境内で西を向いています。
では、こちらの石段を下ります。

方広寺本堂前で、境内で西を向きました。
では、こちらの坂道から方広寺を出ます。
目の前は、大和大路ですね。

方広寺の前で、大和大路を北に向いています。
この先で、急に道幅が狭くなっていますね。
右(東)側の石垣は、安土桃山時代のものをそのまま使用されています。
この石垣は、現在京都市指定文化財に指定されています。

今度は、方広寺の前で大和大路を南に向きました。
今回は、このままこちらを南下します。

方広寺の前から大和大路を約100m南下して、
豊国神社を背に西に向きました。
では、ここからは正面通の北側歩道を西に進みます。

大和大路を西に渡り、その位置で正面通北側歩道を西に向きました。
では、ここから大黒町通を目指して西に進みます。

大和大路から、正面通北側歩道を約50m西に進みました。
こちらに、甘春堂東店が建ってあります。
大黒町通に戻る前にこちらに寄り道しましたが、
もうだいぶ写真を貼り付けました。
今回は、ここまでです。
~次回は甘春堂東店で休憩した後、大黒町通を北上します~
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前回ブログで、七条通から大黒町通を約200m北上しました。
目の前の耳塚を通り過ぎると、大黒町通は正面通と交差します。
今回は正面通を東に進み、豊国神社に参拝します。
撮影日は、2022年2月26日土曜日午後3時15分。
この日は、ずっと快晴でした。

正面通から、大黒町通を北に向いています。
この辺りの正面通は、中央分離帯のある4車線の道幅です。
一方正面通以北の大黒町通は、むしろ道幅が狭くなります。
交差点の北西角に建つ浄土宗西山檀林派熊谷山専定寺は、
次回ブログで取材します。

今度は大黒町通から、正面通を西に向きました。
正面通は約50m先の本町通で、道幅が狭くなります。
本町通から正面通をさらに西に進むと、
川魚店の大国や甘春堂本店に辿り着けます。

さらに大黒町通から、正面通を東に向いています。
今回ブログはこちらを進み、正面通東端の豊国神社にお邪魔します。

大黒町通から、正面通を東に進んでいます。
こちらが、正面から見た耳塚です。
ここ東山区鴨東地区には、安土桃山時代に豊臣秀吉によって
大仏殿や豊国廟(豊臣秀吉のお墓)を中心に、
一大宗教施設群が建造されました。
この耳塚もその宗教施設群の一部で、
1592年・1597年の文禄・慶長の役での韓国人戦死者の耳を
こちらに葬った一種のお墓です。
豊臣秀吉がこちらを建立した理由は不明ですが、
考えようによってはこちらは韓国人戦死者の戦没碑でもあります。
ですから、現在は日本・韓国両国政府がこちらを整備しています。

耳塚から、正面通を東に向いています。
ここから、正面通の突き当りに向かいます。

耳塚の東隣に、こちらの耳塚児童公園があります。
午後3時半を回り近くの小学生で溢れていたので、
この石碑周辺しか写せません。
こちらは明治時代初期には空き地だったようで、
明治天皇夫妻がこちらまで行幸された際、
昭憲皇后がお疲れになったので休憩された跡です。
その後こちらは京都市立第27区尋常小学校となり、
大正時代になって児童公園となりました。

耳塚児童公園の前で、正面通の向かい(北)側を見ています。
この辺りの正面通には中央分離帯があって、
そこに百日紅(さるすべり)並木が続いています。
ですから、この辺りは毎年8月になると絶景になります。
(第149回ブログ参照)
そのさらに北側に、甘春堂 東店が建っています。
こちらには、次回ブログで立ち寄ります。

大黒町通から、正面通を約50m東に進みました。
ここで、正面通は大和大路で突き当たります。

正面通から、大和大路を北に向いています。
4車線の道ですが、約100m先で1車線一方通行の道になります。
(詳しくは、第224回ブログ参照)

今度は正面通から、大和大路を南に向きました。
約200m先に、前回ブログの「七条大和大路」交差点があります。
この辺の詳細は、第223回ブログ参照)

さらに、大和大路から正面通を東に向きました。
横断歩道の先に、豊国神社がいらっしゃいます。

先程の横断歩道を渡り、東を向いています。
では目の前の石段を上り、豊国神社境内に入ります。

先程の石段を上り豊国神社一の鳥居をくぐり、
豊国神社境内を東に向いています。
ここから、ゆっくり目の前の本殿に向かいます。

一の鳥居前から、豊国神社境内を東に進んでいます。
先ずは、こちらの手水舎に向かいます。

その手水舎を大写しします。
コロナ禍のご時世から、柄杓は取り除かれてます。
金色の瓢箪から出る水で、直接手を清めるようになっています。

豊国神社手水舎の前で、境内を東に向いています。
ここからは、あちらの豊国神社本殿に向かいます。

こちらが、豊国神社本殿です。
ご祭神は、豊国大明神つまり豊臣秀吉です。
東山区鴨東地区は平安時代末期は法住寺殿でしたが、
(後白河上皇の院政が取り仕切られた場所です)
安土桃山時代は「大仏殿」・豊国廟を中心とした
豊臣秀吉による一大宗教施設群でした。
そしてこの豊国神社本殿の位置に、その大仏殿の本堂がありました。
(厳密には、本殿東隣の緑地公園付近)
この神社は、明治時代に「大仏殿」跡に建立された神社です。
ただし、安土桃山時代からその「大仏殿」の鎮守社として
豊国神社という神社はこの辺りにいらっしゃいました。
(ただし江戸時代は、ほぼ廃社状態でした)

その豊国神社本殿の袂に、こちらがいらっしゃいます。
「招福白虎」と書かれていましたが、この近所の
京都芸術工芸大学の学生さんの作品のようです。

豊国神社本殿前から、境内を南に向いています。
駐車場の奥(南側)に、こちらの社務所があります。
左(東)側が宝物殿の入り口ですが、
今回は時間の都合で宝物殿には立ち寄りません。
(宝物殿の詳細は、第149回ブログ参照)

今度は豊国神社本殿前で、境内を北に向きました。
今回は、こちらの方に向かいます。

豊国神社本殿前から、境内を北上しています。
すると、そちらに稲荷社の朱い鳥居が見えてきました。

こちらが、その末社の稲荷社です。
赤い鳥居が続く様子は、稲荷社にはよくある形式ですね。
ただ、社には「槙島大明神」と書かれていました。

その稲荷社の前で、北を向きました。
ただ目の前の車止めを越えると、
豊国神社を出て天台宗方広寺境内に入ります。

先程の車止めを越えて、すぐに右(東)に向いています。
左(北)側は方広寺の鐘楼で、右(南)側が先程の稲荷社です。
このまま東に進むとそのまま路地となって、住宅街に辿り着けます。
そして、その辺りに「大仏殿址緑地公園」があります。
(詳しくは、第616回ブログ参照)

その路地の北側には、方広寺が経営する駐車場があります。
ただ、こちらには江戸時代中期に造営された
廬舎那仏がいらっしゃいました。
それが、1973年に失火により焼失しました。
(自分も野次馬のの一人だったので、よく覚えています)

その駐車場の西側に、天台宗方広寺の本堂があります。
安土桃山時代に豊臣秀吉がこの辺りに建立した大仏殿の後継寺院です。
大仏と言えば奈良市の華厳宗東大寺にいらっしゃる大仏が有名ですが、
安土桃山時代に織田信長によって東大寺は焼失していました。
(その後江戸時代初期に、東大寺は再建)
そのため、豊臣秀吉が京都に廬舎那仏(大仏)を再建しました。
それがこの東山区鴨東地区に広がる一大宗教施設群なのですが、
権力者が変わった江戸時代になると、暫くこの辺りは放置されました。
そのうち肝心の大仏も様々な理由で焼失しました。
その後大仏殿の後継寺院として、
江戸時代半ばにこの方広寺が再建されました。
江戸時代にこの辺りの住民が何度か大仏を再建したのですが、
何度も焼失して現在方広寺に大仏は現存しません。
ですから本殿には決して大きくない廬舎那仏がご本尊としていらして、
さらに焼失した初代の大仏の足の甲だけ残っています。

方広寺本殿の南側に、重要文化財の鐘楼があります。
次は、こちらに向かいます。

こちらが、方広寺鐘楼の鐘です。
現在のご住職が、鐘の一部を白墨で強調されています。
そちらには、「国家安康」「君臣豊楽」と書かれています。
「徳川家康の首を刎ねようと呪いをかけた」と徳川家康が主張し、
それが1614年~1615年の大坂の陣の一因となりました。
(豊臣氏が滅亡した一因ですね)
この鐘は江戸時代はその辺に放置されていましたが、
明治時代に入って豊国神社境内からこちらに置かれました。

方広寺鐘楼の天井部分を撮りました。
天井の板には、このように飛天が描かれています。

さらに、方広寺鐘楼天井に描かれた飛天を写しました。
豊国神社や方広寺境内は、自分が子供のころの遊び場でした。
自分が小学生低学年のころまでは、方広寺の鐘は
50円(子供のお小遣いの金額)を支払えば誰でも鐘を衝けました。
どうもいたずらで鐘が壊れそうな衝き方をした大人がいたようで、
それ以降鐘楼内は立ち入り禁止になっています。
(ここの僧侶ではなく、子供のころ近所の小父さんに聞きました)

方広寺鐘楼を背に、方広寺境内で西を向いています。
では、こちらの石段を下ります。

方広寺本堂前で、境内で西を向きました。
では、こちらの坂道から方広寺を出ます。
目の前は、大和大路ですね。

方広寺の前で、大和大路を北に向いています。
この先で、急に道幅が狭くなっていますね。
右(東)側の石垣は、安土桃山時代のものをそのまま使用されています。
この石垣は、現在京都市指定文化財に指定されています。

今度は、方広寺の前で大和大路を南に向きました。
今回は、このままこちらを南下します。

方広寺の前から大和大路を約100m南下して、
豊国神社を背に西に向きました。
では、ここからは正面通の北側歩道を西に進みます。

大和大路を西に渡り、その位置で正面通北側歩道を西に向きました。
では、ここから大黒町通を目指して西に進みます。

大和大路から、正面通北側歩道を約50m西に進みました。
こちらに、甘春堂東店が建ってあります。
大黒町通に戻る前にこちらに寄り道しましたが、
もうだいぶ写真を貼り付けました。
今回は、ここまでです。
~次回は甘春堂東店で休憩した後、大黒町通を北上します~
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