第951回 文子天満宮に参拝~花屋町通東から西~その3
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前回ブログで訪れたWALDEN WOOWDS KYOTOで、
コーヒーとカヌレを戴きました。
その間、窓から雅松児童公園を眺めていました。
10分くらいで飲食を終えるはずが、30分以上ここにいました。
今回はこのカフェを出た後、文子天満宮へ向かいます。
撮影日は、2023年5月25日木曜日午後4時。
本当はもっと先まで撮影するはずでしたが、
こんな時間ではもう少ししかすすめません。

WALDEN WOOWDS KYOTOは
2Fが飲食スペースでしたが、店員さんはいらっしゃいません。
ただ、常時かなりの数のお客さんがいらっしゃいます。
コーヒーとカヌレを戴いた後、下り階段付近に向かいます。
この角度でお客さんが写らない一瞬を利用して、こちらを撮りました。

この回には店員さんがいらっしゃらないので、
飲食後の食器は階段の上り口に置きます。
また、この脇に飲む用のお水も置かれています。

コーヒーカップを置いて、階段を見ています。
ここを下りて、WALDEN WOOWDS KYOTOを出ます。

WALDEN WOOWDS KYOTOを出て、
花屋町通を西に向いています。
ここからは、この花屋町通を西に進みます。

WALDEN WOOWDS KYOTOの前で、
花屋町通の向かい(南)側を向いています。
鉄柵の向こう(南)側が、雅松(わかまつ)児童公園です。
午後4時ともなれば、角度を変えると児童が遊びに来ていました。
ただ、誰も写らないように撮影しました。

WALDEN WOOWDS KYOTOから、
花屋町通を2軒西に進みました。
こちらの自転車屋さんは、自分が子供のころにはありました。
文房具店や駄菓子屋さんと共に、
こちらのお店も「子どもの商店街」を形成していました。
自分が幼稚園児や小学生のころは、
子供にとって派手にデコレーションした自転車は
なくてもならないものでした。
(当時自転車をTVに出てくるキャラクターで装飾するのが、
とても流行っていました)

WALDEN WOOWDS KYOTOから、
花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、高倉通と交差します。

花屋町通から、高倉通を北に向いています。
この高倉通を北上すれば、第404回ブログのルートです。

今度は高倉通から、花屋町通を西に向きました。
2013年ごろはこの辺り全て京町屋でしたが、
そのほとんどが壊されて別の家屋に変わっています。
(2013年当時の様子は、第110回ブログ参照)

高倉通から、花屋町通を西に進んでいます。
この辺りで残っている京町屋は、こちらだけです。
ばったん床机も、健在ですね。

高倉通から、花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、間之町通と交差します。
第948回ブログに出てきた京都御苑間之町口に通じる道ですね。

花屋町通から、間之町通を南に向いています。
ここからはブログ数回を使って、
花屋町通以南の間之町通を取材します。

花屋町通から、間之町通を約50m南下しました。
間之町通の右(西)側に、文子天満宮がいらっしゃいます。

こちらが、文子天満宮(あやこてんまんぐう)です。
京都市街地には、住宅地の1区画に小さな神社が
このようにいらっしゃることが結構あります。
こちらもそんな神社の1柱です。
菅原道真をご祭神とする天神社発祥の地でもあります。
奈良時代以前の天神社も幾柱か存在しますが、
そちらは、大己貴命(おおなむちのみこと)がご祭神です。
こちらの神社の縁起の詳細は、後述します。

文子天満宮境内に入り、左(南)側に手水舎があります。
先ずは、こちらに向かいます。

こちらが、文子天満宮の手水舎です。
手水舎に花を浮かべるのは近年多いのですが、
バラの花が置かれているのは珍しいですね。

その手水舎と文子殿との間に、文子天満宮社務所があります。
お守りの購入とか御朱印を戴くとか、そういうところですね。

一方文子天満宮境内の右(北)側には、
文子天満宮の末社が並びます。
こちらは、白瀧稲荷社ですね。
脇には、オガタマノキが立っています。

オガタマノキの左(西)側にも、文子天満宮の末社が並びます。
右から順に、白太夫社、福部社、老松社です。
どちらも、菅原道真の家臣を神格化したものです。
日本全国の天満宮には、必ずいらっしゃいますね。

そして文子天満宮境内の中央に、本殿がいらっしゃいます。
こちらのご祭神は、菅原道真です。
再建を繰り返して形式が変わっていますが、
こちらに平安時代に菅原道真を祀る祠を建てたのが、
文子天満宮の縁起です。
大宰府に追放された菅原道真が903年に崩御すると、
直後に天然痘が大流行して、
京都では多くの方々が亡くなられました。
菅原道真を追放した藤原時平と藤原忠平親子も
その天然痘で崩御されました。
「天然痘を流行させたのは、菅原道真の怨霊である」
すると、平安京(京都)で多くの人々に
このような話が流布しました。
そのころ多治比文子という女性が神託を受け、
自宅に菅原道真を祀る祠を設けたところ、
天然痘の流行が治まりました。
そして、多くの方々がこちらへお参りに来られました。
これが、現在まで続く「天神信仰」の始まりです。
(北野天満宮は、その直後に建立されました)

文子天満宮本殿の右(南)側に、文子殿がいらっしゃいます。
こちらのご祭神は、多治比文子です。
……と言いますか、ここで問題があります。
それは多治比文子とは何者か、ということです。
女性であることは確定ですが、
実は何者かであるかは諸説いろいろあります。
有力なのは菅原道真の乳母説ですが、
生前の菅原道真とは見識の無かった巫女だった説も有力です。
まぁ約1,000年前、ここに多治比文子が居住していたのは事実です。

文子天満宮の境内を一通り回りました。
では文子天満宮を出て、間之町通に戻ります。

文子天満宮の前で、間之町通を南に向いています。
では、このまま間之町通を南下します。

文子天満宮の2軒南隣に、浄土真宗大谷派光久寺があります。
この辺りには、近くの東本願寺の塔頭寺院が多いです。

文子天満宮から、間之町通を約30m南下しました。
ここで間之町通は、上珠数屋町通と交差します。

間之町通から、上珠数屋町通を西に向いています。
この辺りには、まだだいぶ京町屋が残っていますね。
約150m先で上珠数屋町通は、東本願寺に突き当たります。
そのため、この辺りには観光客が多いですね。

今度は間之町通から、上珠数屋町通を東に向きました。
上珠数屋町通は渉成園最北端の道で、
約200m先で交差する河原町通付近が、前回ブログ最初の地点です。

さらに上珠数屋町通から、間之町通を南に向いています。
ここから、間之町通は歩道付きの2車線の道路となります。
上珠数屋町通同様、間之町通にも明治時代市電が走っていました。

上珠数屋町通から、間之町通を南下しています。
そろそろ2023年5月25日木曜日午後4時半です。
現在この先の渉成園に向かっていますが、
そちらは午後5時に門が閉じられます。
急いでも、中には入れなさそうです。

上珠数屋町通から、間之町通を約50m南下しました。
こちらは、浄土真宗大谷派仏願寺です。
「六条道場」と書かれているのは、
江戸時代にこちらに佛教の研究機関があったからです。

浄土真宗大谷派仏願寺の前で、間之町通を南に向いています。
では、このまま間之町通を南下します。

浄土真宗大谷派仏願寺から、間之町通を約50m南下しました。
ここで間之町通は、正面通と交差します。

間之町通から、正面通を西に向いています。
正面通を約150m西に進むと東本願寺御影門があるため、
この辺りには仏具店など東本願寺関連の施設が多いです。
右(南)側の団地も、東本願寺職員のための住宅です。
(東本願寺の職員ということは、大半が僧侶です)
正面通の詳細は、第688回ブログ参照です。

その位置で東を向くと正面通は伸びておらず、
代わりに渉成園の門があります。
東本願寺の別荘である渉成園にはこちらから入れますが、
この時点で2023年5月25日木曜日午後4時半を回っています。
中に入っても、10分くらいで出ていかないといけません。
この渉成園の中には、別の日に取材し直します。
ですから、今回はここまでです。
~次回は、渉成園を数年ぶりに散策します~
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前回ブログで訪れたWALDEN WOOWDS KYOTOで、
コーヒーとカヌレを戴きました。
その間、窓から雅松児童公園を眺めていました。
10分くらいで飲食を終えるはずが、30分以上ここにいました。
今回はこのカフェを出た後、文子天満宮へ向かいます。
撮影日は、2023年5月25日木曜日午後4時。
本当はもっと先まで撮影するはずでしたが、
こんな時間ではもう少ししかすすめません。

WALDEN WOOWDS KYOTOは
2Fが飲食スペースでしたが、店員さんはいらっしゃいません。
ただ、常時かなりの数のお客さんがいらっしゃいます。
コーヒーとカヌレを戴いた後、下り階段付近に向かいます。
この角度でお客さんが写らない一瞬を利用して、こちらを撮りました。

この回には店員さんがいらっしゃらないので、
飲食後の食器は階段の上り口に置きます。
また、この脇に飲む用のお水も置かれています。

コーヒーカップを置いて、階段を見ています。
ここを下りて、WALDEN WOOWDS KYOTOを出ます。

WALDEN WOOWDS KYOTOを出て、
花屋町通を西に向いています。
ここからは、この花屋町通を西に進みます。

WALDEN WOOWDS KYOTOの前で、
花屋町通の向かい(南)側を向いています。
鉄柵の向こう(南)側が、雅松(わかまつ)児童公園です。
午後4時ともなれば、角度を変えると児童が遊びに来ていました。
ただ、誰も写らないように撮影しました。

WALDEN WOOWDS KYOTOから、
花屋町通を2軒西に進みました。
こちらの自転車屋さんは、自分が子供のころにはありました。
文房具店や駄菓子屋さんと共に、
こちらのお店も「子どもの商店街」を形成していました。
自分が幼稚園児や小学生のころは、
子供にとって派手にデコレーションした自転車は
なくてもならないものでした。
(当時自転車をTVに出てくるキャラクターで装飾するのが、
とても流行っていました)

WALDEN WOOWDS KYOTOから、
花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、高倉通と交差します。

花屋町通から、高倉通を北に向いています。
この高倉通を北上すれば、第404回ブログのルートです。

今度は高倉通から、花屋町通を西に向きました。
2013年ごろはこの辺り全て京町屋でしたが、
そのほとんどが壊されて別の家屋に変わっています。
(2013年当時の様子は、第110回ブログ参照)

高倉通から、花屋町通を西に進んでいます。
この辺りで残っている京町屋は、こちらだけです。
ばったん床机も、健在ですね。

高倉通から、花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、間之町通と交差します。
第948回ブログに出てきた京都御苑間之町口に通じる道ですね。

花屋町通から、間之町通を南に向いています。
ここからはブログ数回を使って、
花屋町通以南の間之町通を取材します。

花屋町通から、間之町通を約50m南下しました。
間之町通の右(西)側に、文子天満宮がいらっしゃいます。

こちらが、文子天満宮(あやこてんまんぐう)です。
京都市街地には、住宅地の1区画に小さな神社が
このようにいらっしゃることが結構あります。
こちらもそんな神社の1柱です。
菅原道真をご祭神とする天神社発祥の地でもあります。
奈良時代以前の天神社も幾柱か存在しますが、
そちらは、大己貴命(おおなむちのみこと)がご祭神です。
こちらの神社の縁起の詳細は、後述します。

文子天満宮境内に入り、左(南)側に手水舎があります。
先ずは、こちらに向かいます。

こちらが、文子天満宮の手水舎です。
手水舎に花を浮かべるのは近年多いのですが、
バラの花が置かれているのは珍しいですね。

その手水舎と文子殿との間に、文子天満宮社務所があります。
お守りの購入とか御朱印を戴くとか、そういうところですね。

一方文子天満宮境内の右(北)側には、
文子天満宮の末社が並びます。
こちらは、白瀧稲荷社ですね。
脇には、オガタマノキが立っています。

オガタマノキの左(西)側にも、文子天満宮の末社が並びます。
右から順に、白太夫社、福部社、老松社です。
どちらも、菅原道真の家臣を神格化したものです。
日本全国の天満宮には、必ずいらっしゃいますね。

そして文子天満宮境内の中央に、本殿がいらっしゃいます。
こちらのご祭神は、菅原道真です。
再建を繰り返して形式が変わっていますが、
こちらに平安時代に菅原道真を祀る祠を建てたのが、
文子天満宮の縁起です。
大宰府に追放された菅原道真が903年に崩御すると、
直後に天然痘が大流行して、
京都では多くの方々が亡くなられました。
菅原道真を追放した藤原時平と藤原忠平親子も
その天然痘で崩御されました。
「天然痘を流行させたのは、菅原道真の怨霊である」
すると、平安京(京都)で多くの人々に
このような話が流布しました。
そのころ多治比文子という女性が神託を受け、
自宅に菅原道真を祀る祠を設けたところ、
天然痘の流行が治まりました。
そして、多くの方々がこちらへお参りに来られました。
これが、現在まで続く「天神信仰」の始まりです。
(北野天満宮は、その直後に建立されました)

文子天満宮本殿の右(南)側に、文子殿がいらっしゃいます。
こちらのご祭神は、多治比文子です。
……と言いますか、ここで問題があります。
それは多治比文子とは何者か、ということです。
女性であることは確定ですが、
実は何者かであるかは諸説いろいろあります。
有力なのは菅原道真の乳母説ですが、
生前の菅原道真とは見識の無かった巫女だった説も有力です。
まぁ約1,000年前、ここに多治比文子が居住していたのは事実です。

文子天満宮の境内を一通り回りました。
では文子天満宮を出て、間之町通に戻ります。

文子天満宮の前で、間之町通を南に向いています。
では、このまま間之町通を南下します。

文子天満宮の2軒南隣に、浄土真宗大谷派光久寺があります。
この辺りには、近くの東本願寺の塔頭寺院が多いです。

文子天満宮から、間之町通を約30m南下しました。
ここで間之町通は、上珠数屋町通と交差します。

間之町通から、上珠数屋町通を西に向いています。
この辺りには、まだだいぶ京町屋が残っていますね。
約150m先で上珠数屋町通は、東本願寺に突き当たります。
そのため、この辺りには観光客が多いですね。

今度は間之町通から、上珠数屋町通を東に向きました。
上珠数屋町通は渉成園最北端の道で、
約200m先で交差する河原町通付近が、前回ブログ最初の地点です。

さらに上珠数屋町通から、間之町通を南に向いています。
ここから、間之町通は歩道付きの2車線の道路となります。
上珠数屋町通同様、間之町通にも明治時代市電が走っていました。

上珠数屋町通から、間之町通を南下しています。
そろそろ2023年5月25日木曜日午後4時半です。
現在この先の渉成園に向かっていますが、
そちらは午後5時に門が閉じられます。
急いでも、中には入れなさそうです。

上珠数屋町通から、間之町通を約50m南下しました。
こちらは、浄土真宗大谷派仏願寺です。
「六条道場」と書かれているのは、
江戸時代にこちらに佛教の研究機関があったからです。

浄土真宗大谷派仏願寺の前で、間之町通を南に向いています。
では、このまま間之町通を南下します。

浄土真宗大谷派仏願寺から、間之町通を約50m南下しました。
ここで間之町通は、正面通と交差します。

間之町通から、正面通を西に向いています。
正面通を約150m西に進むと東本願寺御影門があるため、
この辺りには仏具店など東本願寺関連の施設が多いです。
右(南)側の団地も、東本願寺職員のための住宅です。
(東本願寺の職員ということは、大半が僧侶です)
正面通の詳細は、第688回ブログ参照です。

その位置で東を向くと正面通は伸びておらず、
代わりに渉成園の門があります。
東本願寺の別荘である渉成園にはこちらから入れますが、
この時点で2023年5月25日木曜日午後4時半を回っています。
中に入っても、10分くらいで出ていかないといけません。
この渉成園の中には、別の日に取材し直します。
ですから、今回はここまでです。
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