第975回 月鉾から放下鉾~祇園祭前祭山鉾巡行~その7
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前回ブログで棒振囃子を取材した綾傘鉾に続いて、
くじ取らずの鉾5番月鉾の幟が「四条寺町」交差点に登場です。
月鉾は祇園祭最大の山鉾で、形状も美しいですね。
今回は月鉾の後、伯牙山、蟷螂山、占出山、放下鉾と続きます。
撮影日は、2023年7月17日月曜日午前11時半。
この辺りから、山鉾巡行のペースが上がります。

月鉾の最先端を撮りました。
そもそも「鉾」とは槍の一種ですが、
それぞれの鉾には長い棒の先端に金属製の刃先が付きます。
これら鉾は、巡行することで
周囲に蔓延る悪いもの・良くないものを切り裂きます。
祇園祭では山鉾巡行で周囲を清浄化した後、
八坂神社のご神体がお神輿に乗って、
東山区祇園地区などの氏子地域を巡ります。
つまりこの山鉾巡行は、夕方からの神輿渡御の準備です。

月鉾が、「四条寺町」交差点に登場しました。
祇園祭の鉾は、約30人の曳手が人力で
人が歩く速さで移動させています。

月鉾の上部を大写ししました。
長刀鉾以外の鉾には、人形の稚児が同乗します。
(長刀鉾には、人間の稚児が同乗します)
月鉾には、月を司る月読命が祀られています。

ところが、月鉾はこの地点で停止しました。
また、山鉾が渋滞しています。

月鉾の停止は、約5分でした。
だんだん渋滞の間隔と回数が減ってきました。
渋滞が終わると、月鉾の音頭取りが合図を送ります。

「えいやらや~」音頭取りの掛け声とともに、
月鉾が前進します。
暫く休憩されていた曳手の皆さんが、
月鉾を四条通を東へと曳いています。

月鉾が、八坂神社お旅所前を通過します。
月鉾の脇では、囃子手さんたちが祇園囃子を演奏されています。
月鉾の胴掛はインド製の絨毯ですが、
その上に巻かれている水引は円山応挙の日本画です。

月鉾が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点を目指します。
月鉾の見送りは近年新調されていますが、
詳細を自分は知りません。

月鉾の後は、2023年の山11番伯牙山が登場します。
重要文化財の杉本家邸宅が、会所として使われています。

こちらが、伯牙山です。
古代中国の物語を基にしていますので、
装飾品はほとんどが中国製です。

伯牙山が、八坂神社お旅所前を通過します。
伯牙は、周(約3000年前の中国)に実在した箏の名手です。
ところが親友で同じく箏の名手であった鍾期子が死亡すると、
その悲しみのあまり愛用の箏を斧で叩き割り、
二度と箏を弾かなくなりました。
この山では、年老いた伯牙が
斧で箏を叩き割る瞬間を表現しています。

山鉾巡行中の伯牙像を大写ししました。
その表情が、親友の死で悲しみに歪んでいます。

伯牙山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点へ移動します。
先述の通り、この見送りも数百年前の中国製です。

続いては、2023年の山12番蟷螂山です。
蟷螂(とうろう)とは、カマキリのことです。
祇園祭の山鉾の中でも、特に人気のある山です。

こちらが、蟷螂山です。
御所車の上に、カマキリが乗っています。
こちらは、南北朝時代の1352年に戦死した四条隆資の戦い方が
カマキリが前足を振りまわる様子に似ていました。
その後四条隆資を偲んで、四条家の御所車にカマキリを乗せたことが
この山の由来です。

蟷螂山のカマキリを大写ししました。
先ほどの写真とカマキリの姿が異なるのをお気づきでしょうか?
こちらのカマキリは、羽根を広げています。
このカマキリはからくり人形で、頭・前足の鎌・羽根が動きます。

蟷螂山が、八坂神社お旅所前に登場しました。
人気のある山だけに、観覧席からも歓声が上がります。
すると蟷螂山のカマキリの頭や前足、羽根が激しく動き始めました。

蟷螂山が、八坂神社お旅所前を通過します。
御所車の上のカマキリ像は、体調1mくらいでしょうか。

蟷螂山の胴掛を大写ししました。
祇園祭の山鉾の大半は1864年のどんどん焼けで焼失しましたが、
その後徐々に復活しました。
蟷螂山は1982年に復活したのですが、
比較的最近に復活した山ですから、
装飾品がどれも真新しいですね。

蟷螂山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点に移動します。
観覧席から去っていく蟷螂山のカマキリ像が、
前足の鎌を振って、別れを告げています。

そして2023年の山13番は、占出山です。
この後はくじ取らずの山鉾ばかりで、曳山か鉾しか残っていません。
ですから、占出山が2023年の担ぎ山の最後尾です。
ここ10年で3回「山1番」を引いていた山が、
最後尾なのは「くじの妙」ですね。

占出山が、八坂神社お旅所前に登場しました。
占出山は、神功皇后が新羅との戦争直前に
アユを釣り戦争の結果を占う場面を山にしています。
ですから神功皇后像は、釣竿を持っています。

占出山の神功皇后像を大写ししています。
よく見ないと分かりにくいですが、
神功皇后像は左脇に太刀を帯びています。
この刀は平安時代の刀匠三条宗近によるものです。
今から1,000年以上前の方なので、
三条宗近が製作した刀はほとんど現存していません。
ですから、現存する三条宗近の刀はすべて国宝です。
ということは、この太刀も国宝ということになります。

占出山が、八坂神社お旅所前を通過します。
この角度の方が、神功皇后が帯びる国宝の太刀がよく見えます。
占出山の胴掛は、日本三景を描いています。
こちらは、天橋立を描いていますね。
その上部には、三十六歌仙を描いた水引を巻いています。

占出山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点へ移動します。
占出山の見送りは花鳥龍文様の綴織ですが、
こちらは近年復元新調されたものです。

以上で2023年の担ぎ山は、すべて八坂神社お旅所前を通過しました。
続いては、くじ取らずの鉾6番の放下鉾です。
こちらは、通常形態の鉾の最後尾でもあります。
(残りの2基は、かなり特殊な山が登場します)

約30人の曳手に曳かれて、放下鉾の登場です。
もう担ぎ山はすべて通過しているので、
残りの山鉾はどちらも曳手に曳かれています。

放下鉾の「放下」とは、放下僧を差します。
「僧」ではあるのですが、大道芸をしながら旅をする人々のことです。
外からは見えませんが、鉾の中心に放下僧の像が置かれていて
そのことからこの名前が付きました。

放下鉾を大写ししました。
放下鉾の稚児人形は「三光丸」と名付けられていて、
町衆さんが操ることで人間のような動きをします。

八坂神社お旅所の手前で、放下鉾が停止しました。
また山鉾が渋滞しています。
ただ、今回はすぐに動き出しました。
放下鉾の音頭取りが、扇子を振り始めます。

「えいやらや~」
掛け声とともに、音頭取りが扇子を前に突き出します。
すると、放下鉾が再び前進しました。

放下鉾が八坂神社お旅所の前を通過します。
放下鉾も「鉾」なので両脇に囃子方が乗り込んでいて、
祇園囃子を演奏されています。
放下鉾の胴掛は、おそらくインド製の絨毯です。
江戸時代の祇園祭の町衆は、京都でも有力な商人でした。
ですから豊富な資金を背景に、
世界中の絨毯やタペストリーを買い求めて、
それを山鉾に貼り付けています。

放下鉾が四条通を東に進み、「四条河原町」交差点に移動します。
見送りのモスクの前をフクロウが飛ぶ図案は、
ここ最近(2010年)新調されたものです。

……と、ここでまた渋滞から放下鉾が停止しました。
すると、放下鉾の長持から水と塩飴が曳手の皆さんに配布されました。
炎天下のこの日、油断をすると簡単に熱中症になってしまいます。

放下鉾に続いて、曳山の岩戸山が登場します。
ただ岩戸山はこれまでの担ぎ山と形状も構成も異なるので、
これまでの山とは別枠でカウントします。
岩戸山の後は最後尾の船鉾で前祭山鉾巡行が終わります。
残り2基ですが、だいぶ写真を貼り付けましたので
今回はここまでです。
~次回は岩戸山と船鉾を観覧した後、帰宅します~
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前回ブログで棒振囃子を取材した綾傘鉾に続いて、
くじ取らずの鉾5番月鉾の幟が「四条寺町」交差点に登場です。
月鉾は祇園祭最大の山鉾で、形状も美しいですね。
今回は月鉾の後、伯牙山、蟷螂山、占出山、放下鉾と続きます。
撮影日は、2023年7月17日月曜日午前11時半。
この辺りから、山鉾巡行のペースが上がります。

月鉾の最先端を撮りました。
そもそも「鉾」とは槍の一種ですが、
それぞれの鉾には長い棒の先端に金属製の刃先が付きます。
これら鉾は、巡行することで
周囲に蔓延る悪いもの・良くないものを切り裂きます。
祇園祭では山鉾巡行で周囲を清浄化した後、
八坂神社のご神体がお神輿に乗って、
東山区祇園地区などの氏子地域を巡ります。
つまりこの山鉾巡行は、夕方からの神輿渡御の準備です。

月鉾が、「四条寺町」交差点に登場しました。
祇園祭の鉾は、約30人の曳手が人力で
人が歩く速さで移動させています。

月鉾の上部を大写ししました。
長刀鉾以外の鉾には、人形の稚児が同乗します。
(長刀鉾には、人間の稚児が同乗します)
月鉾には、月を司る月読命が祀られています。

ところが、月鉾はこの地点で停止しました。
また、山鉾が渋滞しています。

月鉾の停止は、約5分でした。
だんだん渋滞の間隔と回数が減ってきました。
渋滞が終わると、月鉾の音頭取りが合図を送ります。

「えいやらや~」音頭取りの掛け声とともに、
月鉾が前進します。
暫く休憩されていた曳手の皆さんが、
月鉾を四条通を東へと曳いています。

月鉾が、八坂神社お旅所前を通過します。
月鉾の脇では、囃子手さんたちが祇園囃子を演奏されています。
月鉾の胴掛はインド製の絨毯ですが、
その上に巻かれている水引は円山応挙の日本画です。

月鉾が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点を目指します。
月鉾の見送りは近年新調されていますが、
詳細を自分は知りません。

月鉾の後は、2023年の山11番伯牙山が登場します。
重要文化財の杉本家邸宅が、会所として使われています。

こちらが、伯牙山です。
古代中国の物語を基にしていますので、
装飾品はほとんどが中国製です。

伯牙山が、八坂神社お旅所前を通過します。
伯牙は、周(約3000年前の中国)に実在した箏の名手です。
ところが親友で同じく箏の名手であった鍾期子が死亡すると、
その悲しみのあまり愛用の箏を斧で叩き割り、
二度と箏を弾かなくなりました。
この山では、年老いた伯牙が
斧で箏を叩き割る瞬間を表現しています。

山鉾巡行中の伯牙像を大写ししました。
その表情が、親友の死で悲しみに歪んでいます。

伯牙山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点へ移動します。
先述の通り、この見送りも数百年前の中国製です。

続いては、2023年の山12番蟷螂山です。
蟷螂(とうろう)とは、カマキリのことです。
祇園祭の山鉾の中でも、特に人気のある山です。

こちらが、蟷螂山です。
御所車の上に、カマキリが乗っています。
こちらは、南北朝時代の1352年に戦死した四条隆資の戦い方が
カマキリが前足を振りまわる様子に似ていました。
その後四条隆資を偲んで、四条家の御所車にカマキリを乗せたことが
この山の由来です。

蟷螂山のカマキリを大写ししました。
先ほどの写真とカマキリの姿が異なるのをお気づきでしょうか?
こちらのカマキリは、羽根を広げています。
このカマキリはからくり人形で、頭・前足の鎌・羽根が動きます。

蟷螂山が、八坂神社お旅所前に登場しました。
人気のある山だけに、観覧席からも歓声が上がります。
すると蟷螂山のカマキリの頭や前足、羽根が激しく動き始めました。

蟷螂山が、八坂神社お旅所前を通過します。
御所車の上のカマキリ像は、体調1mくらいでしょうか。

蟷螂山の胴掛を大写ししました。
祇園祭の山鉾の大半は1864年のどんどん焼けで焼失しましたが、
その後徐々に復活しました。
蟷螂山は1982年に復活したのですが、
比較的最近に復活した山ですから、
装飾品がどれも真新しいですね。

蟷螂山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点に移動します。
観覧席から去っていく蟷螂山のカマキリ像が、
前足の鎌を振って、別れを告げています。

そして2023年の山13番は、占出山です。
この後はくじ取らずの山鉾ばかりで、曳山か鉾しか残っていません。
ですから、占出山が2023年の担ぎ山の最後尾です。
ここ10年で3回「山1番」を引いていた山が、
最後尾なのは「くじの妙」ですね。

占出山が、八坂神社お旅所前に登場しました。
占出山は、神功皇后が新羅との戦争直前に
アユを釣り戦争の結果を占う場面を山にしています。
ですから神功皇后像は、釣竿を持っています。

占出山の神功皇后像を大写ししています。
よく見ないと分かりにくいですが、
神功皇后像は左脇に太刀を帯びています。
この刀は平安時代の刀匠三条宗近によるものです。
今から1,000年以上前の方なので、
三条宗近が製作した刀はほとんど現存していません。
ですから、現存する三条宗近の刀はすべて国宝です。
ということは、この太刀も国宝ということになります。

占出山が、八坂神社お旅所前を通過します。
この角度の方が、神功皇后が帯びる国宝の太刀がよく見えます。
占出山の胴掛は、日本三景を描いています。
こちらは、天橋立を描いていますね。
その上部には、三十六歌仙を描いた水引を巻いています。

占出山が四条通を東に向かい、「四条河原町」交差点へ移動します。
占出山の見送りは花鳥龍文様の綴織ですが、
こちらは近年復元新調されたものです。

以上で2023年の担ぎ山は、すべて八坂神社お旅所前を通過しました。
続いては、くじ取らずの鉾6番の放下鉾です。
こちらは、通常形態の鉾の最後尾でもあります。
(残りの2基は、かなり特殊な山が登場します)

約30人の曳手に曳かれて、放下鉾の登場です。
もう担ぎ山はすべて通過しているので、
残りの山鉾はどちらも曳手に曳かれています。

放下鉾の「放下」とは、放下僧を差します。
「僧」ではあるのですが、大道芸をしながら旅をする人々のことです。
外からは見えませんが、鉾の中心に放下僧の像が置かれていて
そのことからこの名前が付きました。

放下鉾を大写ししました。
放下鉾の稚児人形は「三光丸」と名付けられていて、
町衆さんが操ることで人間のような動きをします。

八坂神社お旅所の手前で、放下鉾が停止しました。
また山鉾が渋滞しています。
ただ、今回はすぐに動き出しました。
放下鉾の音頭取りが、扇子を振り始めます。

「えいやらや~」
掛け声とともに、音頭取りが扇子を前に突き出します。
すると、放下鉾が再び前進しました。

放下鉾が八坂神社お旅所の前を通過します。
放下鉾も「鉾」なので両脇に囃子方が乗り込んでいて、
祇園囃子を演奏されています。
放下鉾の胴掛は、おそらくインド製の絨毯です。
江戸時代の祇園祭の町衆は、京都でも有力な商人でした。
ですから豊富な資金を背景に、
世界中の絨毯やタペストリーを買い求めて、
それを山鉾に貼り付けています。

放下鉾が四条通を東に進み、「四条河原町」交差点に移動します。
見送りのモスクの前をフクロウが飛ぶ図案は、
ここ最近(2010年)新調されたものです。

……と、ここでまた渋滞から放下鉾が停止しました。
すると、放下鉾の長持から水と塩飴が曳手の皆さんに配布されました。
炎天下のこの日、油断をすると簡単に熱中症になってしまいます。

放下鉾に続いて、曳山の岩戸山が登場します。
ただ岩戸山はこれまでの担ぎ山と形状も構成も異なるので、
これまでの山とは別枠でカウントします。
岩戸山の後は最後尾の船鉾で前祭山鉾巡行が終わります。
残り2基ですが、だいぶ写真を貼り付けましたので
今回はここまでです。
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