第911回 六道珍皇寺初ゑんま詣~初ゑびす2023~その6
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前回ブログで散策した宮川町筋から、
松原通を約100m東に進みました。
この辺りは精肉店や青果店、川魚店などの小売店が建ち並びますが、
花街宮川町が近いのでどちらも価格の高い高級食材を扱っています。
今回はこのまま松原通を東に進み続け、
東山区六原地区を通り抜けます。
撮影日は、2023年1月8日日曜日午後3時。
いつもより、観光客の姿が多いですね。

松原通をさらに約10m東に進みました。
これで、宮川町筋からは約110m東に進みました。
ここで、松原通から南に大黒町通が南に伸びています。
(目の前のお地蔵さんの右側から伸びています)

松原通から、大黒町通を南に向いています。
大黒町通は、約1.5㎞先の七条通まで伸びています。
(七条通付近の大黒町通の様子は、第309回ブログ参照)

大黒町通最北端から、松原通を東に向いています。
目の前で松原通は、大和大路と交差します。

松原通から、大和大路を北に向いています。
約50m先で、大和大路から東に八坂通が伸びています。
(八坂通の様子は、第906回ブログ参照)
さらに約50m大和大路を北上すると、ゑびす神社がいらっしゃいます。
そのゑびす神社では「初ゑびす」が催されていますが、
2023年1月8日日曜日午後3時現在交通規制は行われていません。
(ゑびす神社周辺の様子は、第907回ブログ参照)
ですから、大和大路は渋滞していました。

大和大路から、松原通を南東に向いています。
(大和大路以東の松原通は、少し蛇行します)
また大和大路以東の松原通~五条通間が、
東山区六原(六波羅)地区です。
この辺りから、徐々に上り坂が始まります。
今回ブログは、このまま松原通を東に進みます。

大和大路から、松原通を約100m南東に進みました。
この辺りに、松原交番が建っていますね。
京都市街地では、警察署の統廃合が進んでいます。
約12年前まで、こちらには松原警察署が建っていました。

松原交番から、松原通を南東に約100m進みました。
この先で、松原通は六原本通と交差する「六道の辻」に辿り着きます。

「六道の辻」では、室町時代まで野辺送りが行われていました。
「野辺送り」とは、現在でいうお葬式のことです。
また当時は裕福な者以外はお墓を作れませんでしたので、
この東山区六原地区と東隣の東山区鳥辺野地区は、風葬が通常でした。
(東山区鳥辺野地区の様子は、第617回ブログ参照)
ですから室町時代以前のこの辺りは、
あちこちに骸骨が散乱していました。
まぁ古代から存在する都市の郊外の多くが、元々墓場か霊場です。
(個人的には、それが都市の営みと考えています。
ですから、ホラー的要素は微塵もありません)
「六道の辻」南西角に、浄土宗桂光山西福寺が建っています。
境内にはたくさんの石仏がいらっしゃいますが、
こちらはお地蔵さんではなく、室町時代以前の墓石です。
(当時は共同墓地でしたので、石仏も共同使用でした)
西福寺の詳細は、第815回ブログを参照してください。

「六道の辻」で、松原通から六原本通を南に向いています。
約100m先に、真言宗智山派六波羅蜜寺が建っています。
慶派による彫刻が多数安置されていますが、
空也上人像と平清盛像は歴史の教科書に載っています。
ただそちらまで進むとさらにもう1回ブログを使いますので、
今回はそちらへ進みませんでした。

「六道の辻」で、松原通から北を向きました。
ここで六原本通が突き当たっていて、
目の前にみなとや幽霊子育て飴本舗が建っています。
土産物として飴が有名ですが、実は日本茶販売が本業です。

「六道の辻」南東角に、六波羅飯店が建っています。
自分が、中学生のころから常連の「町中華」です。
今回はこの後立ち寄るところがあるので、素通りしました。

「六道の辻」で、六原本通から松原通を南東に向きました。
六原本通は、この少し先で筋違いに北に伸びています。
ここから松原通は様々な飲食店が建ち並びますが、
その辺りを進んでいきます。

「六道の辻」から、松原通を約100m南東に進みました。
目の前に、「ハッピー六原」の看板が立っています。

その看板の辺りで、松原通から北に向いています。
この路地には、理髪店など様々な商店が並びます。
実は、この辺りは地域住民にとっては繁華街です。
この路地を約100m北上すると、八坂通で突き当たります。
(タバコ屋さんの角付近です)

今度は同じ位置で、松原通から南を向きました。
こちらに、地域スーパーのハッピー六原が建っています。
この日(2023年1月8日)は晩御飯のおかずを買ってあったので、
今回は素通りします。

「ハッピー六原」の看板の前で、松原通を東に向いています。
目の前の精肉店は、日曜日なので閉まっています。
松原通は、この辺りから真東に進路が変わります。
では、ここからも松原通を東に進みます。

「ハッピー六原」と書かれた看板から、
松原通を東に約50m進みました。
ここで松原通沿いに、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺が建っています。
この日(2023年1月8日)は、参拝者が多いですね。

こちらが、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺正門です。
八坂通にも六道珍皇寺の門がありますが、
そちらは裏門なので境内にはこの門からしか入れません。
こちらでは、毎年1月14日~1月16日に初ゑんま詣が開催されます。
この日(2023年1月8日日曜日)はそれに先駆けて、
普段非公開の本堂が公開されていました。
では、自分もこちらに参拝します。

松原通から六道珍皇寺の正門をくぐり、境内を北上しています。
普段六道珍皇寺は屋内が非公開ですが、
通常でも境内は公開されています。
それでも普段は参拝者がほとんどいらっしゃらないのですが、
(第19回ブログ参照)
この日は結構な方々がいらっしゃいました。
目の前のお堂には最澄作と伝えられている
地蔵菩薩像がいらっしゃいますが、
この日は扉が閉まっていて内部は覗けませんでした。

その向かい(西)側に、水子祠堂が並びます。
その左(南)側にお岩大明神がいらっしゃるのですが、
おそらく東海道四谷怪談に出てくる主人公
「お岩」を祀っているお岩稲荷がご祭神でしょう。

その右(北)側に、石仏群が建ち並びます。
こちらはお地蔵さんではなく、室町時代以前の墓石です。
(先述の西福寺と同じです)

その石仏群を大写しします。
よく見ると、後ろの方はお地蔵さんですね。
このような石仏群は、かつて霊場だった場所にはよくいらっしゃます。
(蓮台野とか化野とか)

最澄作と伝えられるお地蔵さんがいらっしゃるお堂の北側に、
こちらのお堂が建っています。
中に、小野篁像とその小野篁作と伝えられている閻魔像が並びます。
もともとこの地は小野篁の邸宅跡で、
小野篁の死後この寺院が創建されました。
また小野篁は地獄で閻魔(ゑんま)に仕えていたという伝説があり、
この六道珍皇寺はその伝説を背景に成立しています。

先程のお堂の北側に、六道珍皇寺の鐘楼があります。
こちらは、通常と異なり綱を引いて鳴らす鐘です。

六道珍皇寺境内中央に、こちらの塚が立ちます。
こちらも「六道の辻」と呼ばれていて、
室町時代以前に野辺送り(葬式)が執り行われた場所のようです。
「六道の辻」は先述の交差点と合わせて2か所存在して、
西福寺と六道珍皇寺と異なる主張をしています。
どちらも文献や掛け軸などの証拠があり、
実は定説ではどちらが本当の「六道の辻」か判別していません。

六道珍皇寺の「六道の辻」の北側に、
臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂が建っています。
ご本尊は薬師如来で、元は平安時代以来の浄土教寺院でした。
ところが1467年の応仁の乱でこちらは焼失して廃寺になりました。
それを近所の建仁寺の僧侶が江戸時代に再興させました。
そのため、現在こちらは臨済宗建仁寺派本山建仁寺の塔頭寺院です。

こちらは、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂の西側です。
通常本堂は非公開なのですが、初ゑんま詣期間中は公開されます。

では、こちらから靴を脱いで六道珍皇寺本堂に入ります。
本堂内部は公開されますが、撮影は不可です。
よって、本堂内部の写真はありません。

ただ、その前にこちらで手指消毒します。
本堂内にご住職がいらして、堂内の薬師如来像にお参りしました。
またこちらは「地獄信仰」の中心地でもあります。
「地獄信仰」は仏教の一派ですが「道徳」の側面が強く、
地獄の恐ろしさを強調することで、生前の生き方を問う思想です。
(「死後地獄に行きたくないなら、生前正しく生きよう」)
「地獄信仰」の僧侶は江戸時代を中心に日本全国を巡り、
掛け軸片手にその教えを広めました。
この日(2023年1月8日)も、堂内に数本掛け軸が掛かっていました。
さらに、こちらには小野篁が毎日地獄に通うために
行き来したとされる冥土通いの井戸が庭園にあるのですが、
この日(2023年1月8日)は公開されていませんでした。

薬師如来像にお参りして、六道珍皇寺本堂を出ました。
では再び靴を履いて、六道珍皇寺境内に出ます。

臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂を出て、
「六道の辻」を背に境内を南に向いています。
左(東)側に、小野篁像と閻魔像が安置されるお堂が見えます。
では、ここをさらに南下します。

さらに六道珍皇寺境内を南下しています。
では向こうに見える門から、六道珍皇寺を出ます。

六道珍皇寺の門をくぐり、南を向いています。
ここからは、目の前の松原通に戻ります。

臨済宗建仁寺派六道珍皇寺から、松原通を東に向いています。
もう上り坂も、だいぶ急になりました。
では、ここから松原通を東に進みます。

六道珍皇寺から、松原通を約100m東に進みました。
ここで松原通は、東大路と交差する「清水道」交差点に出ます。

暫く待つと、「清水道」交差点の信号が変わりました。
ここからは横断歩道を渡り、東大路東側歩道へと移ります。

東大路から、松原通を東に向いています。
上り坂が、さらに急になっていますね。
このまま松原通を突き当りまで進むと、清水寺があります。

今度は松原通から、東大路を北に向きました。
ここからは、東大路を北上します。

松原通から、東大路を約50m北上しました。
こちらが、「清水道」バス停です。
ここで数分待って、206系市バスに乗って帰宅しました。
~今回で、「初ゑびす2023」編は終了です~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
臨済宗建仁寺派六道珍皇寺が、起点です。
~追記 その2~
危うく立ち往生でした
2023年1月下旬の大寒波は、京都でも大雪となりました。
会社からの帰り道、ウチの前は約30㎝雪が積もってしまいました。
(自分の膝下くらいまで、雪で埋もれました)
問題は、職場から最寄り駅に到達するまででした。
2023年1月24日火曜日午後9時ごろ、
会社の上司からこう言われました。
「電車がなくなるので、すぐ帰りなさい」
それで、職場の最寄りのJR琵琶湖線「南草津」駅に急ぎました。
実はこの時点で滋賀県草津市内は積雪が結構あって、
車道と歩道が区別付かない状態でした。
取り敢えず駅に着いた車両に乗ったのですが、約20分動きません。
約20分後に動いても2駅だけで動かなくなり、
自分はJR琵琶湖線「石山」駅で車内で待機を続けました。
……それから約1時間電車は全く動かず、自分も待機していました。
すると、携帯電でツイッターを見ていた約30人の方々が
一斉に電車を降りだされました。
自分は「石山」駅周辺の土地勘があったので、
隣接する京阪電鉄がこの時点で動いていることに気付きました。
そのため、自分もその方々と同行して京阪電鉄で移動しました。
そこからゆっくりですが、京阪電鉄が移動して
「浜大津」駅経由で山科方面に進めました。
ちなみに雪が降っていても地下鉄は普通に動いていて、
そこからは早かったです。
とは言え、いったん地下鉄東西線に乗り入れて
京阪電鉄「三条」駅経由で京阪電鉄「七条」駅に着いた頃には
JR琵琶湖線「南草津」駅にいたときから約3時間経っていました。
まぁそれでも自分はウチに辿り着いたのですが、
自分が乗っていたJR琵琶湖線の1本手前の車両が一晩停止して、
乗客が午前0時ごろ猛吹雪の中を歩いて「山科」駅まで戻り、
駅の執務室で一晩過ごされたと翌日のニュースで知りました。
さらに自分が乗っていた電車も一晩動かず、
京阪電鉄に乗らずにそのまま残られた方々も、
そこで一晩過ごされたと報道されていました。
車内は結構満員でしたので、長時間待機し続けたら
救急搬送される事態も納得です。
車掌さんや駅員さんにも上司から結構連絡がなかったようで、
自分が「石山」駅にいたときも情報が錯綜していました。
現場の方々はできることを限界までされていましたが、
現場より立場が上の方々が
JR琵琶湖線と並行する京阪電鉄と連絡を取り合うなどすれば、
「石山」駅と「山科」駅に近い乗客は、
もう少し何とかなったように思っています。
~追記 その3~
その翌日のウチの様子

ともかく自分は、2023年1月24日火曜日はウチで寝られました。
そして翌日の2023年1月25日水曜日に起きると、
朝から雪が積もっていました。
この写真は、2023年1月25日水曜日正午のウチの家の裏です。
目の前の庭はウチのものではなく、南隣の家の一部です。
(ウチは、結構狭いです)
ちなみに、2023年1月26日午後2時現在この雪は溶けていません。
(道端は、さすがに溶けています)
呑気に写真を撮っているのは、ウチの会社は
この日(2023年1月25日水曜日)は全社閉鎖して急遽休日だからです。

ウチの2Fのベランダに、大きな雪塊が置かれています。
80歳を超えたウチの母は気が若くて(?)、
この雪塊で雪だるまを作ろうとしていました。
結局失敗して、こうなりました。
~追記 その4~
今後の予定
今回ブログで、「初ゑびす」の連載を終了しました。
次回からは、「坊城通編」を連載します。
ただ途中で2023年分の「節分」記事が入りますので、
桜の季節まで続く予定です。
京都での「節分」は、他の地方よりも盛大に行われます。
旧暦の大晦日に当たるので、
通常の年末年始の行事があちこちで開催されます。
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前回ブログで散策した宮川町筋から、
松原通を約100m東に進みました。
この辺りは精肉店や青果店、川魚店などの小売店が建ち並びますが、
花街宮川町が近いのでどちらも価格の高い高級食材を扱っています。
今回はこのまま松原通を東に進み続け、
東山区六原地区を通り抜けます。
撮影日は、2023年1月8日日曜日午後3時。
いつもより、観光客の姿が多いですね。

松原通をさらに約10m東に進みました。
これで、宮川町筋からは約110m東に進みました。
ここで、松原通から南に大黒町通が南に伸びています。
(目の前のお地蔵さんの右側から伸びています)

松原通から、大黒町通を南に向いています。
大黒町通は、約1.5㎞先の七条通まで伸びています。
(七条通付近の大黒町通の様子は、第309回ブログ参照)

大黒町通最北端から、松原通を東に向いています。
目の前で松原通は、大和大路と交差します。

松原通から、大和大路を北に向いています。
約50m先で、大和大路から東に八坂通が伸びています。
(八坂通の様子は、第906回ブログ参照)
さらに約50m大和大路を北上すると、ゑびす神社がいらっしゃいます。
そのゑびす神社では「初ゑびす」が催されていますが、
2023年1月8日日曜日午後3時現在交通規制は行われていません。
(ゑびす神社周辺の様子は、第907回ブログ参照)
ですから、大和大路は渋滞していました。

大和大路から、松原通を南東に向いています。
(大和大路以東の松原通は、少し蛇行します)
また大和大路以東の松原通~五条通間が、
東山区六原(六波羅)地区です。
この辺りから、徐々に上り坂が始まります。
今回ブログは、このまま松原通を東に進みます。

大和大路から、松原通を約100m南東に進みました。
この辺りに、松原交番が建っていますね。
京都市街地では、警察署の統廃合が進んでいます。
約12年前まで、こちらには松原警察署が建っていました。

松原交番から、松原通を南東に約100m進みました。
この先で、松原通は六原本通と交差する「六道の辻」に辿り着きます。

「六道の辻」では、室町時代まで野辺送りが行われていました。
「野辺送り」とは、現在でいうお葬式のことです。
また当時は裕福な者以外はお墓を作れませんでしたので、
この東山区六原地区と東隣の東山区鳥辺野地区は、風葬が通常でした。
(東山区鳥辺野地区の様子は、第617回ブログ参照)
ですから室町時代以前のこの辺りは、
あちこちに骸骨が散乱していました。
まぁ古代から存在する都市の郊外の多くが、元々墓場か霊場です。
(個人的には、それが都市の営みと考えています。
ですから、ホラー的要素は微塵もありません)
「六道の辻」南西角に、浄土宗桂光山西福寺が建っています。
境内にはたくさんの石仏がいらっしゃいますが、
こちらはお地蔵さんではなく、室町時代以前の墓石です。
(当時は共同墓地でしたので、石仏も共同使用でした)
西福寺の詳細は、第815回ブログを参照してください。

「六道の辻」で、松原通から六原本通を南に向いています。
約100m先に、真言宗智山派六波羅蜜寺が建っています。
慶派による彫刻が多数安置されていますが、
空也上人像と平清盛像は歴史の教科書に載っています。
ただそちらまで進むとさらにもう1回ブログを使いますので、
今回はそちらへ進みませんでした。

「六道の辻」で、松原通から北を向きました。
ここで六原本通が突き当たっていて、
目の前にみなとや幽霊子育て飴本舗が建っています。
土産物として飴が有名ですが、実は日本茶販売が本業です。

「六道の辻」南東角に、六波羅飯店が建っています。
自分が、中学生のころから常連の「町中華」です。
今回はこの後立ち寄るところがあるので、素通りしました。

「六道の辻」で、六原本通から松原通を南東に向きました。
六原本通は、この少し先で筋違いに北に伸びています。
ここから松原通は様々な飲食店が建ち並びますが、
その辺りを進んでいきます。

「六道の辻」から、松原通を約100m南東に進みました。
目の前に、「ハッピー六原」の看板が立っています。

その看板の辺りで、松原通から北に向いています。
この路地には、理髪店など様々な商店が並びます。
実は、この辺りは地域住民にとっては繁華街です。
この路地を約100m北上すると、八坂通で突き当たります。
(タバコ屋さんの角付近です)

今度は同じ位置で、松原通から南を向きました。
こちらに、地域スーパーのハッピー六原が建っています。
この日(2023年1月8日)は晩御飯のおかずを買ってあったので、
今回は素通りします。

「ハッピー六原」の看板の前で、松原通を東に向いています。
目の前の精肉店は、日曜日なので閉まっています。
松原通は、この辺りから真東に進路が変わります。
では、ここからも松原通を東に進みます。

「ハッピー六原」と書かれた看板から、
松原通を東に約50m進みました。
ここで松原通沿いに、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺が建っています。
この日(2023年1月8日)は、参拝者が多いですね。

こちらが、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺正門です。
八坂通にも六道珍皇寺の門がありますが、
そちらは裏門なので境内にはこの門からしか入れません。
こちらでは、毎年1月14日~1月16日に初ゑんま詣が開催されます。
この日(2023年1月8日日曜日)はそれに先駆けて、
普段非公開の本堂が公開されていました。
では、自分もこちらに参拝します。

松原通から六道珍皇寺の正門をくぐり、境内を北上しています。
普段六道珍皇寺は屋内が非公開ですが、
通常でも境内は公開されています。
それでも普段は参拝者がほとんどいらっしゃらないのですが、
(第19回ブログ参照)
この日は結構な方々がいらっしゃいました。
目の前のお堂には最澄作と伝えられている
地蔵菩薩像がいらっしゃいますが、
この日は扉が閉まっていて内部は覗けませんでした。

その向かい(西)側に、水子祠堂が並びます。
その左(南)側にお岩大明神がいらっしゃるのですが、
おそらく東海道四谷怪談に出てくる主人公
「お岩」を祀っているお岩稲荷がご祭神でしょう。

その右(北)側に、石仏群が建ち並びます。
こちらはお地蔵さんではなく、室町時代以前の墓石です。
(先述の西福寺と同じです)

その石仏群を大写しします。
よく見ると、後ろの方はお地蔵さんですね。
このような石仏群は、かつて霊場だった場所にはよくいらっしゃます。
(蓮台野とか化野とか)

最澄作と伝えられるお地蔵さんがいらっしゃるお堂の北側に、
こちらのお堂が建っています。
中に、小野篁像とその小野篁作と伝えられている閻魔像が並びます。
もともとこの地は小野篁の邸宅跡で、
小野篁の死後この寺院が創建されました。
また小野篁は地獄で閻魔(ゑんま)に仕えていたという伝説があり、
この六道珍皇寺はその伝説を背景に成立しています。

先程のお堂の北側に、六道珍皇寺の鐘楼があります。
こちらは、通常と異なり綱を引いて鳴らす鐘です。

六道珍皇寺境内中央に、こちらの塚が立ちます。
こちらも「六道の辻」と呼ばれていて、
室町時代以前に野辺送り(葬式)が執り行われた場所のようです。
「六道の辻」は先述の交差点と合わせて2か所存在して、
西福寺と六道珍皇寺と異なる主張をしています。
どちらも文献や掛け軸などの証拠があり、
実は定説ではどちらが本当の「六道の辻」か判別していません。

六道珍皇寺の「六道の辻」の北側に、
臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂が建っています。
ご本尊は薬師如来で、元は平安時代以来の浄土教寺院でした。
ところが1467年の応仁の乱でこちらは焼失して廃寺になりました。
それを近所の建仁寺の僧侶が江戸時代に再興させました。
そのため、現在こちらは臨済宗建仁寺派本山建仁寺の塔頭寺院です。

こちらは、臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂の西側です。
通常本堂は非公開なのですが、初ゑんま詣期間中は公開されます。

では、こちらから靴を脱いで六道珍皇寺本堂に入ります。
本堂内部は公開されますが、撮影は不可です。
よって、本堂内部の写真はありません。

ただ、その前にこちらで手指消毒します。
本堂内にご住職がいらして、堂内の薬師如来像にお参りしました。
またこちらは「地獄信仰」の中心地でもあります。
「地獄信仰」は仏教の一派ですが「道徳」の側面が強く、
地獄の恐ろしさを強調することで、生前の生き方を問う思想です。
(「死後地獄に行きたくないなら、生前正しく生きよう」)
「地獄信仰」の僧侶は江戸時代を中心に日本全国を巡り、
掛け軸片手にその教えを広めました。
この日(2023年1月8日)も、堂内に数本掛け軸が掛かっていました。
さらに、こちらには小野篁が毎日地獄に通うために
行き来したとされる冥土通いの井戸が庭園にあるのですが、
この日(2023年1月8日)は公開されていませんでした。

薬師如来像にお参りして、六道珍皇寺本堂を出ました。
では再び靴を履いて、六道珍皇寺境内に出ます。

臨済宗建仁寺派六道珍皇寺本堂を出て、
「六道の辻」を背に境内を南に向いています。
左(東)側に、小野篁像と閻魔像が安置されるお堂が見えます。
では、ここをさらに南下します。

さらに六道珍皇寺境内を南下しています。
では向こうに見える門から、六道珍皇寺を出ます。

六道珍皇寺の門をくぐり、南を向いています。
ここからは、目の前の松原通に戻ります。

臨済宗建仁寺派六道珍皇寺から、松原通を東に向いています。
もう上り坂も、だいぶ急になりました。
では、ここから松原通を東に進みます。

六道珍皇寺から、松原通を約100m東に進みました。
ここで松原通は、東大路と交差する「清水道」交差点に出ます。

暫く待つと、「清水道」交差点の信号が変わりました。
ここからは横断歩道を渡り、東大路東側歩道へと移ります。

東大路から、松原通を東に向いています。
上り坂が、さらに急になっていますね。
このまま松原通を突き当りまで進むと、清水寺があります。

今度は松原通から、東大路を北に向きました。
ここからは、東大路を北上します。

松原通から、東大路を約50m北上しました。
こちらが、「清水道」バス停です。
ここで数分待って、206系市バスに乗って帰宅しました。
~今回で、「初ゑびす2023」編は終了です~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
臨済宗建仁寺派六道珍皇寺が、起点です。
~追記 その2~
危うく立ち往生でした
2023年1月下旬の大寒波は、京都でも大雪となりました。
会社からの帰り道、ウチの前は約30㎝雪が積もってしまいました。
(自分の膝下くらいまで、雪で埋もれました)
問題は、職場から最寄り駅に到達するまででした。
2023年1月24日火曜日午後9時ごろ、
会社の上司からこう言われました。
「電車がなくなるので、すぐ帰りなさい」
それで、職場の最寄りのJR琵琶湖線「南草津」駅に急ぎました。
実はこの時点で滋賀県草津市内は積雪が結構あって、
車道と歩道が区別付かない状態でした。
取り敢えず駅に着いた車両に乗ったのですが、約20分動きません。
約20分後に動いても2駅だけで動かなくなり、
自分はJR琵琶湖線「石山」駅で車内で待機を続けました。
……それから約1時間電車は全く動かず、自分も待機していました。
すると、携帯電でツイッターを見ていた約30人の方々が
一斉に電車を降りだされました。
自分は「石山」駅周辺の土地勘があったので、
隣接する京阪電鉄がこの時点で動いていることに気付きました。
そのため、自分もその方々と同行して京阪電鉄で移動しました。
そこからゆっくりですが、京阪電鉄が移動して
「浜大津」駅経由で山科方面に進めました。
ちなみに雪が降っていても地下鉄は普通に動いていて、
そこからは早かったです。
とは言え、いったん地下鉄東西線に乗り入れて
京阪電鉄「三条」駅経由で京阪電鉄「七条」駅に着いた頃には
JR琵琶湖線「南草津」駅にいたときから約3時間経っていました。
まぁそれでも自分はウチに辿り着いたのですが、
自分が乗っていたJR琵琶湖線の1本手前の車両が一晩停止して、
乗客が午前0時ごろ猛吹雪の中を歩いて「山科」駅まで戻り、
駅の執務室で一晩過ごされたと翌日のニュースで知りました。
さらに自分が乗っていた電車も一晩動かず、
京阪電鉄に乗らずにそのまま残られた方々も、
そこで一晩過ごされたと報道されていました。
車内は結構満員でしたので、長時間待機し続けたら
救急搬送される事態も納得です。
車掌さんや駅員さんにも上司から結構連絡がなかったようで、
自分が「石山」駅にいたときも情報が錯綜していました。
現場の方々はできることを限界までされていましたが、
現場より立場が上の方々が
JR琵琶湖線と並行する京阪電鉄と連絡を取り合うなどすれば、
「石山」駅と「山科」駅に近い乗客は、
もう少し何とかなったように思っています。
~追記 その3~
その翌日のウチの様子

ともかく自分は、2023年1月24日火曜日はウチで寝られました。
そして翌日の2023年1月25日水曜日に起きると、
朝から雪が積もっていました。
この写真は、2023年1月25日水曜日正午のウチの家の裏です。
目の前の庭はウチのものではなく、南隣の家の一部です。
(ウチは、結構狭いです)
ちなみに、2023年1月26日午後2時現在この雪は溶けていません。
(道端は、さすがに溶けています)
呑気に写真を撮っているのは、ウチの会社は
この日(2023年1月25日水曜日)は全社閉鎖して急遽休日だからです。

ウチの2Fのベランダに、大きな雪塊が置かれています。
80歳を超えたウチの母は気が若くて(?)、
この雪塊で雪だるまを作ろうとしていました。
結局失敗して、こうなりました。
~追記 その4~
今後の予定
今回ブログで、「初ゑびす」の連載を終了しました。
次回からは、「坊城通編」を連載します。
ただ途中で2023年分の「節分」記事が入りますので、
桜の季節まで続く予定です。
京都での「節分」は、他の地方よりも盛大に行われます。
旧暦の大晦日に当たるので、
通常の年末年始の行事があちこちで開催されます。
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