第921回 壬生の新撰組~坊城通南から北~その10
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前回ブログで節分会の壬生寺をほぼ散策し終え、
後は壬生塚を残すだけになりました。
「壬生塚」とは壬生寺の池に浮かぶ小島で、
壬生寺歴代管主や新選組隊士のお墓が立っています。
今回は壬生塚に訪れた後、
中京区壬生地区に残る新撰組の足跡を巡ります。
撮影日は、2023年2月2日木曜日午後3時半。
今回は、壬生寺より北に向かいます。

壬生寺阿弥陀堂内は撮影不可なので、写真はありません。
壬生寺の阿弥陀堂には、文字通り阿弥陀如来像がいらっしゃいます。
もちろんその阿弥陀如来像にはお参りしますが、
この阿弥陀堂が北側の壬生塚に向かえる唯一のルートです。
阿弥陀堂内に設置された料金所で300円を納めて、
阿弥陀堂の北側に広がる壬生塚に向かいます。

阿弥陀堂を北に抜けると、こちらの橋に辿り着きます。
この橋の先が、壬生塚です。

阿弥陀堂から壬生寺境内を北上して
橋を渡っている途中で、左(西)に向きました。
金鍍金の龍の像が、池に浮かんでいますね。

先程の橋を渡って、壬生塚に辿り着きました。
壬生塚の奥(東)の方に新撰組隊士のお墓が立っていますが、
手前のこの辺りには壬生寺歴代管主のお墓が立ち並びます。

同じ位置で、壬生塚を東に向いています。
右(南)側の道を進むと、新撰組隊士のお墓が立ち並びます。

壬生塚で東に進む途中に、こちらの人丸塚が立っています。
柿本人麻呂のお墓と伝わっていますが、
どの歴史上の資料を読み比べてみても、
京都に柿本人麻呂のお墓がある可能性は皆無です。
おそらく後世の歌人のお墓でしょうね。
ちなみに「人丸(ひとまる)」→「火止まる」の語呂合わせから、
こちらには火災除けのご利益があります。

壬生塚の最東端まで来ました。
こちらの近藤勇の胸像は、映画関係者が壬生寺に寄贈されたものです。
ちなみに、壬生塚に近藤勇のお墓はありません。

壬生塚最東端から、壬生寺境内を北を向いています。
壬生塚のいちばん奥に、新撰組隊士のお墓が立ち並びます。

先ずは、こちらに志納金を納めます。
この辺りは、この寄付により成り立っています。

この辺りから、壬生塚に並ぶ新撰組の隊士のお墓が並びます。
左(北)側のお墓は、新撰組勘定方河合耆三郎のものです。
新撰組の相当数が規律違反で切腹していますが、
河合耆三郎もその一人です。
親許がお金を納めれば切腹を許されることになっていたのですが、
肝心のお金を集めることに時間がかかり、結局切腹した方です。
切腹の期限延長を認めなかった新撰組の幹部に
腹を立てた河合耆三郎の父は、抗議の意味も込めて
この壬生寺に新撰組隊士としては破格に大きな墓を立てました。
それが、こちらです。
右(南)側は、新撰組隊士の共用のお墓です。
たくさんの方の遺骨を納めるのは不可能ですので、
こちらは墓碑だけで遺骨はこの下に埋まっていません。

そして壬生塚のいちばん奥に、こちらのお墓が立ってます。
右(東)側のお墓は、新撰組隊士共用のお墓です。
墓碑銘に、野口健司と書かれていますね。
他の隊士は、自分のよく知らない方々です。
ただ、このお墓の下には遺骨は入っていません。
野口健司のご遺体は、後述の光縁寺の北側
嵐電の線路の下に眠っておられます。

そしてその右(西)側が、芹沢鴨と平山五郎のお墓です。
どちらも、後述の八木邸で暗殺された人物です。
ただ、ご遺体はこちらには埋められていません。
仏光寺通の南側に広がる壬生寺墓地の中に、
現在もご遺体が眠っておられます。

その芹沢鴨と平山五郎のお墓の裏(北)側は堀に見えますが、
先程の池と繋がっていて、この壬生塚が池に浮かぶ小島と分かります。
その「堀」に、こちらが飛来してきました。
魚を探すように暫く水面に嘴を漬けていましたが、
やがて遠くに去っていきました。

近藤勇の胸像前まで戻り、壬生塚を西に向いています。
あちらから、何人か参拝者が来られます。
壬生塚は「壬生地区の新撰組関連施設」ではいちばん有名ですし……
では、自分はそろそろ壬生塚をこのまま西に進みます。

壬生塚最西端から、南を向いています。
では、この橋を渡り壬生寺阿弥陀堂内に入っていきます。

壬生塚から壬生寺阿弥陀堂内に入り、
さらに南下してその阿弥陀堂を南に出ました。
こちらは、壬生寺境内ですね。
目の前(南側)に、壬生寺中院が建っています。

壬生寺阿弥陀堂を出て、壬生寺境内を東に向いています。
この日(2023年2月2日木曜日)は、
壬生寺では節分会が催されています。
第917回ブログから壬生寺境内を散策してきましたが、
そろそろこの先の山門に向かいます。

先程の位置から、壬生寺境内を約20m東に進みました。
では目の前の山門から律宗壬生寺を出て、坊城通沿いに出ます。

壬生寺山門から東側に出て、坊城通を北に向いています。
では、ここから坊城通を北上しています。

確か数年前まで壬生寺山門の北側は小さな駐車場だったはずですが、
いつの間にかカフェが開店していました。
「だんだらカフェ」と書かれていますが、
クッキーとかお菓子がおいしそうなお店ですね。

壬生寺山門から、坊城通を約30m北上しました。
坊城通の東側は、臨済宗永源寺派鳳翔山新徳寺(新徳禅寺)です。
江戸時代半ばの1739年、天巌文聰によって建立されました。
1863年清河八郎が江戸で結成した浪士組が京都に訪れたとき、
この新徳寺で宿泊しました。
清河八郎が京都に来た名目上の目的は
江戸幕府14代将軍徳川家茂の護衛だったのですが、
この新徳寺の本堂で江戸幕府を打倒する必要性を説きました。
その際江戸幕府側に立とうとした近藤勇や芹沢鴨らが、
浪士組を脱退してその浪士組が江戸に帰った後も京都に残りました。
これが、新撰組の始まりです。
つまり、ここが新撰組発祥の地です。

その新徳寺では御朱印を発行されているはずなのですが、
本堂や境内には入れません。
代わりに、先程の門より北側に露店が立っていました。
この露店では、各種甘納豆が売られていました。

こちらが、その甘納豆です。
こちらは、中京区壬生地区の和菓子店が製造しています。
と言いましても、阪急電車「西院」駅の近くですが……
こちらで普段から販売されているわけではなく、
節分会のこの時期限定でこちらで売られています。

こちらは、この袋に入っていたリストです。
茶福豆や小豆が一般的ですが、
このお店は様々な甘納豆を製造しています。
この中にはありませんが、カカオ豆の甘納豆も売られていました。

こちらは、後日昼過ぎに戴きました。
最近は、ウチではそば茶が好まれています。

その甘納豆を大写ししました。
1種類だけではなく、様々な豆類が並びます。
それぞれが、素材本来の甘味を出しています。

新徳寺の門前から、坊城通を北に向いています。
節分会の時期は、四条通以南の坊城通に露店が並びます。

新徳寺から、坊城通をさらに北上しています。
壬生寺の北隣に、「鶴屋」という和菓子匠が建っています。
まんじゅうや羊羹など様々な和菓子が売られていますが、
近年は茶席が設けられており、そこで和菓子を戴けます。

鶴屋の茶席の前に、こちらが置かれておりました。
まんじゅうや羊羹などお持ち帰り用の和菓子以外にも、
このようなものも茶席で戴けます。

その「鶴家」の茶席から、さらに奥(西側)に向いています。
赤地に「誠」と書かれた旗が示すように、
和菓子匠の鶴屋の店主は、八木家の子孫です。
八木家はこの壬生一帯の地主だった一族で、
この八木家邸宅に新撰組隊士が居住していました。
つまり、この奥が新選組の壬生屯所です。

新撰組壬生屯所だった八木邸は撮影不可ですが、
有料で屋内を拝観できます。
拝観料は1000円ですが、学芸員の解説と
帰途に抹茶と和菓子を先程の茶席で戴けるサービス付きです。
邸内にいらした学芸員さんは何度か自分もお目に掛かった方でした。
数年ぶりにお話を聞くと、以前より詳しい話をされていました。
様々な参考文献を提示しつつ、いろいろ話されていました。
八木邸で話されるのは、先述の芹沢鴨と平山五郎暗殺事件です。
学芸員さんが解説された部屋で起きた事件ですね。
当初は新撰組と対立する長州藩士の犯行と考えられていましたが、
会津藩主で新撰組を管轄する松平容保が、
近藤勇に命じて殺させたのが真相のようです。
ただ、一緒に部屋にいた吉栄さんも殺されたと解説されていました。
八木邸内の仏壇に芹沢鴨と平山五郎、お梅さんの位牌がありますが、
吉栄さんの位牌はありません。
さらに作家の子母澤寛が取材した八木為三郎氏の発言でも、
吉栄さんは事件後も生きています。
(当時子供だった為三郎氏と、吉栄さんが一緒に食事をしています)
そうすると吉栄さんは事件に巻き込まれていないことになりますが、
こちらの学芸員さんは終始一貫して
「吉栄さんは暗殺された」と主張されています。
たぶん調査された結果、この事件で
吉江さんが殺された証拠をつかまれたのでしょうね。

学芸員さんのお話は、30分近く続きました。
そちらを聞き終えて、鶴屋の茶席に向かいました。
この日(2023年2月2日)は結構寒かったので、
茶席には小さな火鉢が置かれていました。

最初に戴いた半券を提示すると、
店員さんがこちらを持って来られました。
抹茶とこちらで売られている和菓子ですね。

店員さんが持って来られたのは、抹茶と屯所餅でした。
こちらを戴きながら、ちょっと休憩します。

屯所餅は、求肥のの中に小豆餡が入った餅です。
そちらを抹茶とともに堪能していると、午後4時20分を回りました。
そろそろ西日が傾いてきています。
ちょっと慌てて、先を進みます。

茶席を後にして、鶴屋店内を東に向いています。
では鶴屋を出て、坊城通に戻ります。

和菓子匠の鶴屋の前で、坊城通を北に向いています。
では、ここからは坊城通を北上します。

鶴屋の前から、坊城通を約20m北上しました。
ここで坊城通は、綾小路と交差します。

坊城通から、綾小路を東に向いています。
右(南)側に、旧前川邸が見えますね。

坊城通から、綾小路を約10m東に進みました。
こちらから、旧前川邸に入れます。
結成後だんだんと入隊者が増えていった新撰組は、
程なく八木邸が手狭になってきました。
そこで、新撰組は八木邸の東隣のこの前川邸も
屯所として使うようになりました。
新撰組隊士と一緒に生活していた八木家の方々に対して、
前川家の方々は新撰組が現れると、
すぐにこの屋敷を捨てて別の土地に引っ越されました。
そのため、こちらを「旧」前川邸と呼びます。
この旧前川邸は新撰組隊士の居住スペースだったのですが、
古高俊太郎を拷問したり、山南敬助や野口健司など、
多くの新撰組隊士が規律違反により切腹させられたりした場所です。
こちらは週末限定で公開されるのですが、
この日(2023年2月2日)は木曜日でしたので、
屋内には入れませんでした。

旧前川邸門前から、綾小路を東に向いています。
では、ここからはこの綾小路を東に進みます。

坊城通から、綾小路を約150m東に進みました。
ここで綾小路は、壬生川通と交差します。

壬生川通から、綾小路を東に向いています。
横断歩道を渡って、壬生川通から綾小路をさらに東進します。

壬生川通から、綾小路を東に向いています。
壬生川通以東の綾小路沿いに、小さなお寺がたくさん並びます。

壬生川通から、綾小路を約100m東に進みました。
こちらに、浄土宗上宮院聖徳寺が建っています。
ご本尊の阿弥陀如来像が、聖徳太子作と伝えられています。

上宮院聖徳寺から、綾小路を約30m東に進みました。
こちらに、浄土宗知恩院派満月山普照院光縁寺が建っています。
江戸時代末期の住職が山南敬助と友人であったため、
その山南敬助のお墓が立てられました。
以来新撰組隊士のご遺体が次々埋葬され、
墓地の北端に新撰組隊士共用のお墓が立っています。
そのため、多くの方がお参りに来られます。
ただこの日はあちこち回るのに時間がかかり、
この時点で午後4時半を回っていました。
そのため、光縁寺の門は閉ざされていました。
残念ながら中に入れませんので、ここから坊城通に戻ります。
ただもうだいぶ写真を貼り付けたので、
今回はここまでです。
~次回は、元祇園梛神社の節分会に向かいます~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
鶴屋鶴寿庵(新撰組壬生屯所)が、起点です。
~追記 その2~
今回ブログ更新に時間がかかってしまった件
コロナ禍になって以来、自分のブログ更新ペースは
だいたい週3回ペースに変わってきていました。
ところが、今回ブログは前回ブログ更新から
約1週間後に更新しました。
まぁ数年前なら普通のペースでしたが、
ここ最近では多少遅れ気味です。
ここ最近週半ばが多少忙しくて週末には余裕があったのですが、
2023年2月18日土曜日と2023年2月19日日曜日は、
数年ぶりに仕事が立て込んでおり、
ブログを執筆する時間を捻出できませんでした。
そのため2023年2月19日日曜日の夜から、
2023年2月20日月曜日早朝に一気に書き上げました。
要するに、ブログ更新ペースが遅くなった言い訳です。
~追記 その3~
センターバックの差です
2023年2月17日金曜日に、J1リーグが開幕しました。
我らが京都サンガも2023年2月18日土曜日に、
京都府亀岡市のサンガスタジアムで鹿島と戦いました。
後半は結構拮抗した展開でしたが、0-2で緒戦を落としました。
先発のFW山崎選手が鹿島の両センターバックに完全に抑え込まれ、
京都のセンターバックがミス連発で失点していたので、
前半はいったい何点取られるかわからない展開でした。
(GK若原選手の好セーブ連発で、難を逃れました)
正直パトリック選手、一美選手、アピアタウィア選手が先発ならば、
勝利は難しくても、引き分けていたと思います。
京都のセンターバックは若手選手が多くて、
一度パニックを引き起こすと致命的なミスを繰り返します。
個人的には、麻田選手の適任は左サイドバックと思います。
また相手クラブからプレッシングを受ける中で
センターバックにパスするのは、かなり危険です。
少々厳しくてもサイドは前へ前へ勝負しないと、
一見安全なバックパスが致命的なミスになります。
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前回ブログで節分会の壬生寺をほぼ散策し終え、
後は壬生塚を残すだけになりました。
「壬生塚」とは壬生寺の池に浮かぶ小島で、
壬生寺歴代管主や新選組隊士のお墓が立っています。
今回は壬生塚に訪れた後、
中京区壬生地区に残る新撰組の足跡を巡ります。
撮影日は、2023年2月2日木曜日午後3時半。
今回は、壬生寺より北に向かいます。

壬生寺阿弥陀堂内は撮影不可なので、写真はありません。
壬生寺の阿弥陀堂には、文字通り阿弥陀如来像がいらっしゃいます。
もちろんその阿弥陀如来像にはお参りしますが、
この阿弥陀堂が北側の壬生塚に向かえる唯一のルートです。
阿弥陀堂内に設置された料金所で300円を納めて、
阿弥陀堂の北側に広がる壬生塚に向かいます。

阿弥陀堂を北に抜けると、こちらの橋に辿り着きます。
この橋の先が、壬生塚です。

阿弥陀堂から壬生寺境内を北上して
橋を渡っている途中で、左(西)に向きました。
金鍍金の龍の像が、池に浮かんでいますね。

先程の橋を渡って、壬生塚に辿り着きました。
壬生塚の奥(東)の方に新撰組隊士のお墓が立っていますが、
手前のこの辺りには壬生寺歴代管主のお墓が立ち並びます。

同じ位置で、壬生塚を東に向いています。
右(南)側の道を進むと、新撰組隊士のお墓が立ち並びます。

壬生塚で東に進む途中に、こちらの人丸塚が立っています。
柿本人麻呂のお墓と伝わっていますが、
どの歴史上の資料を読み比べてみても、
京都に柿本人麻呂のお墓がある可能性は皆無です。
おそらく後世の歌人のお墓でしょうね。
ちなみに「人丸(ひとまる)」→「火止まる」の語呂合わせから、
こちらには火災除けのご利益があります。

壬生塚の最東端まで来ました。
こちらの近藤勇の胸像は、映画関係者が壬生寺に寄贈されたものです。
ちなみに、壬生塚に近藤勇のお墓はありません。

壬生塚最東端から、壬生寺境内を北を向いています。
壬生塚のいちばん奥に、新撰組隊士のお墓が立ち並びます。

先ずは、こちらに志納金を納めます。
この辺りは、この寄付により成り立っています。

この辺りから、壬生塚に並ぶ新撰組の隊士のお墓が並びます。
左(北)側のお墓は、新撰組勘定方河合耆三郎のものです。
新撰組の相当数が規律違反で切腹していますが、
河合耆三郎もその一人です。
親許がお金を納めれば切腹を許されることになっていたのですが、
肝心のお金を集めることに時間がかかり、結局切腹した方です。
切腹の期限延長を認めなかった新撰組の幹部に
腹を立てた河合耆三郎の父は、抗議の意味も込めて
この壬生寺に新撰組隊士としては破格に大きな墓を立てました。
それが、こちらです。
右(南)側は、新撰組隊士の共用のお墓です。
たくさんの方の遺骨を納めるのは不可能ですので、
こちらは墓碑だけで遺骨はこの下に埋まっていません。

そして壬生塚のいちばん奥に、こちらのお墓が立ってます。
右(東)側のお墓は、新撰組隊士共用のお墓です。
墓碑銘に、野口健司と書かれていますね。
他の隊士は、自分のよく知らない方々です。
ただ、このお墓の下には遺骨は入っていません。
野口健司のご遺体は、後述の光縁寺の北側
嵐電の線路の下に眠っておられます。

そしてその右(西)側が、芹沢鴨と平山五郎のお墓です。
どちらも、後述の八木邸で暗殺された人物です。
ただ、ご遺体はこちらには埋められていません。
仏光寺通の南側に広がる壬生寺墓地の中に、
現在もご遺体が眠っておられます。

その芹沢鴨と平山五郎のお墓の裏(北)側は堀に見えますが、
先程の池と繋がっていて、この壬生塚が池に浮かぶ小島と分かります。
その「堀」に、こちらが飛来してきました。
魚を探すように暫く水面に嘴を漬けていましたが、
やがて遠くに去っていきました。

近藤勇の胸像前まで戻り、壬生塚を西に向いています。
あちらから、何人か参拝者が来られます。
壬生塚は「壬生地区の新撰組関連施設」ではいちばん有名ですし……
では、自分はそろそろ壬生塚をこのまま西に進みます。

壬生塚最西端から、南を向いています。
では、この橋を渡り壬生寺阿弥陀堂内に入っていきます。

壬生塚から壬生寺阿弥陀堂内に入り、
さらに南下してその阿弥陀堂を南に出ました。
こちらは、壬生寺境内ですね。
目の前(南側)に、壬生寺中院が建っています。

壬生寺阿弥陀堂を出て、壬生寺境内を東に向いています。
この日(2023年2月2日木曜日)は、
壬生寺では節分会が催されています。
第917回ブログから壬生寺境内を散策してきましたが、
そろそろこの先の山門に向かいます。

先程の位置から、壬生寺境内を約20m東に進みました。
では目の前の山門から律宗壬生寺を出て、坊城通沿いに出ます。

壬生寺山門から東側に出て、坊城通を北に向いています。
では、ここから坊城通を北上しています。

確か数年前まで壬生寺山門の北側は小さな駐車場だったはずですが、
いつの間にかカフェが開店していました。
「だんだらカフェ」と書かれていますが、
クッキーとかお菓子がおいしそうなお店ですね。

壬生寺山門から、坊城通を約30m北上しました。
坊城通の東側は、臨済宗永源寺派鳳翔山新徳寺(新徳禅寺)です。
江戸時代半ばの1739年、天巌文聰によって建立されました。
1863年清河八郎が江戸で結成した浪士組が京都に訪れたとき、
この新徳寺で宿泊しました。
清河八郎が京都に来た名目上の目的は
江戸幕府14代将軍徳川家茂の護衛だったのですが、
この新徳寺の本堂で江戸幕府を打倒する必要性を説きました。
その際江戸幕府側に立とうとした近藤勇や芹沢鴨らが、
浪士組を脱退してその浪士組が江戸に帰った後も京都に残りました。
これが、新撰組の始まりです。
つまり、ここが新撰組発祥の地です。

その新徳寺では御朱印を発行されているはずなのですが、
本堂や境内には入れません。
代わりに、先程の門より北側に露店が立っていました。
この露店では、各種甘納豆が売られていました。

こちらが、その甘納豆です。
こちらは、中京区壬生地区の和菓子店が製造しています。
と言いましても、阪急電車「西院」駅の近くですが……
こちらで普段から販売されているわけではなく、
節分会のこの時期限定でこちらで売られています。

こちらは、この袋に入っていたリストです。
茶福豆や小豆が一般的ですが、
このお店は様々な甘納豆を製造しています。
この中にはありませんが、カカオ豆の甘納豆も売られていました。

こちらは、後日昼過ぎに戴きました。
最近は、ウチではそば茶が好まれています。

その甘納豆を大写ししました。
1種類だけではなく、様々な豆類が並びます。
それぞれが、素材本来の甘味を出しています。

新徳寺の門前から、坊城通を北に向いています。
節分会の時期は、四条通以南の坊城通に露店が並びます。

新徳寺から、坊城通をさらに北上しています。
壬生寺の北隣に、「鶴屋」という和菓子匠が建っています。
まんじゅうや羊羹など様々な和菓子が売られていますが、
近年は茶席が設けられており、そこで和菓子を戴けます。

鶴屋の茶席の前に、こちらが置かれておりました。
まんじゅうや羊羹などお持ち帰り用の和菓子以外にも、
このようなものも茶席で戴けます。

その「鶴家」の茶席から、さらに奥(西側)に向いています。
赤地に「誠」と書かれた旗が示すように、
和菓子匠の鶴屋の店主は、八木家の子孫です。
八木家はこの壬生一帯の地主だった一族で、
この八木家邸宅に新撰組隊士が居住していました。
つまり、この奥が新選組の壬生屯所です。

新撰組壬生屯所だった八木邸は撮影不可ですが、
有料で屋内を拝観できます。
拝観料は1000円ですが、学芸員の解説と
帰途に抹茶と和菓子を先程の茶席で戴けるサービス付きです。
邸内にいらした学芸員さんは何度か自分もお目に掛かった方でした。
数年ぶりにお話を聞くと、以前より詳しい話をされていました。
様々な参考文献を提示しつつ、いろいろ話されていました。
八木邸で話されるのは、先述の芹沢鴨と平山五郎暗殺事件です。
学芸員さんが解説された部屋で起きた事件ですね。
当初は新撰組と対立する長州藩士の犯行と考えられていましたが、
会津藩主で新撰組を管轄する松平容保が、
近藤勇に命じて殺させたのが真相のようです。
ただ、一緒に部屋にいた吉栄さんも殺されたと解説されていました。
八木邸内の仏壇に芹沢鴨と平山五郎、お梅さんの位牌がありますが、
吉栄さんの位牌はありません。
さらに作家の子母澤寛が取材した八木為三郎氏の発言でも、
吉栄さんは事件後も生きています。
(当時子供だった為三郎氏と、吉栄さんが一緒に食事をしています)
そうすると吉栄さんは事件に巻き込まれていないことになりますが、
こちらの学芸員さんは終始一貫して
「吉栄さんは暗殺された」と主張されています。
たぶん調査された結果、この事件で
吉江さんが殺された証拠をつかまれたのでしょうね。

学芸員さんのお話は、30分近く続きました。
そちらを聞き終えて、鶴屋の茶席に向かいました。
この日(2023年2月2日)は結構寒かったので、
茶席には小さな火鉢が置かれていました。

最初に戴いた半券を提示すると、
店員さんがこちらを持って来られました。
抹茶とこちらで売られている和菓子ですね。

店員さんが持って来られたのは、抹茶と屯所餅でした。
こちらを戴きながら、ちょっと休憩します。

屯所餅は、求肥のの中に小豆餡が入った餅です。
そちらを抹茶とともに堪能していると、午後4時20分を回りました。
そろそろ西日が傾いてきています。
ちょっと慌てて、先を進みます。

茶席を後にして、鶴屋店内を東に向いています。
では鶴屋を出て、坊城通に戻ります。

和菓子匠の鶴屋の前で、坊城通を北に向いています。
では、ここからは坊城通を北上します。

鶴屋の前から、坊城通を約20m北上しました。
ここで坊城通は、綾小路と交差します。

坊城通から、綾小路を東に向いています。
右(南)側に、旧前川邸が見えますね。

坊城通から、綾小路を約10m東に進みました。
こちらから、旧前川邸に入れます。
結成後だんだんと入隊者が増えていった新撰組は、
程なく八木邸が手狭になってきました。
そこで、新撰組は八木邸の東隣のこの前川邸も
屯所として使うようになりました。
新撰組隊士と一緒に生活していた八木家の方々に対して、
前川家の方々は新撰組が現れると、
すぐにこの屋敷を捨てて別の土地に引っ越されました。
そのため、こちらを「旧」前川邸と呼びます。
この旧前川邸は新撰組隊士の居住スペースだったのですが、
古高俊太郎を拷問したり、山南敬助や野口健司など、
多くの新撰組隊士が規律違反により切腹させられたりした場所です。
こちらは週末限定で公開されるのですが、
この日(2023年2月2日)は木曜日でしたので、
屋内には入れませんでした。

旧前川邸門前から、綾小路を東に向いています。
では、ここからはこの綾小路を東に進みます。

坊城通から、綾小路を約150m東に進みました。
ここで綾小路は、壬生川通と交差します。

壬生川通から、綾小路を東に向いています。
横断歩道を渡って、壬生川通から綾小路をさらに東進します。

壬生川通から、綾小路を東に向いています。
壬生川通以東の綾小路沿いに、小さなお寺がたくさん並びます。

壬生川通から、綾小路を約100m東に進みました。
こちらに、浄土宗上宮院聖徳寺が建っています。
ご本尊の阿弥陀如来像が、聖徳太子作と伝えられています。

上宮院聖徳寺から、綾小路を約30m東に進みました。
こちらに、浄土宗知恩院派満月山普照院光縁寺が建っています。
江戸時代末期の住職が山南敬助と友人であったため、
その山南敬助のお墓が立てられました。
以来新撰組隊士のご遺体が次々埋葬され、
墓地の北端に新撰組隊士共用のお墓が立っています。
そのため、多くの方がお参りに来られます。
ただこの日はあちこち回るのに時間がかかり、
この時点で午後4時半を回っていました。
そのため、光縁寺の門は閉ざされていました。
残念ながら中に入れませんので、ここから坊城通に戻ります。
ただもうだいぶ写真を貼り付けたので、
今回はここまでです。
~次回は、元祇園梛神社の節分会に向かいます~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
鶴屋鶴寿庵(新撰組壬生屯所)が、起点です。
~追記 その2~
今回ブログ更新に時間がかかってしまった件
コロナ禍になって以来、自分のブログ更新ペースは
だいたい週3回ペースに変わってきていました。
ところが、今回ブログは前回ブログ更新から
約1週間後に更新しました。
まぁ数年前なら普通のペースでしたが、
ここ最近では多少遅れ気味です。
ここ最近週半ばが多少忙しくて週末には余裕があったのですが、
2023年2月18日土曜日と2023年2月19日日曜日は、
数年ぶりに仕事が立て込んでおり、
ブログを執筆する時間を捻出できませんでした。
そのため2023年2月19日日曜日の夜から、
2023年2月20日月曜日早朝に一気に書き上げました。
要するに、ブログ更新ペースが遅くなった言い訳です。
~追記 その3~
センターバックの差です
2023年2月17日金曜日に、J1リーグが開幕しました。
我らが京都サンガも2023年2月18日土曜日に、
京都府亀岡市のサンガスタジアムで鹿島と戦いました。
後半は結構拮抗した展開でしたが、0-2で緒戦を落としました。
先発のFW山崎選手が鹿島の両センターバックに完全に抑え込まれ、
京都のセンターバックがミス連発で失点していたので、
前半はいったい何点取られるかわからない展開でした。
(GK若原選手の好セーブ連発で、難を逃れました)
正直パトリック選手、一美選手、アピアタウィア選手が先発ならば、
勝利は難しくても、引き分けていたと思います。
京都のセンターバックは若手選手が多くて、
一度パニックを引き起こすと致命的なミスを繰り返します。
個人的には、麻田選手の適任は左サイドバックと思います。
また相手クラブからプレッシングを受ける中で
センターバックにパスするのは、かなり危険です。
少々厳しくてもサイドは前へ前へ勝負しないと、
一見安全なバックパスが致命的なミスになります。
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