第109回 市比売神社と周辺寺院~京都駅周辺散策~その3

五条通から、富小路を南西に向いています。
京都駅から出発してこのコースも、ちょうど折り返しですね。
実はこの辺りには、市比売神社初め多くの神社仏閣があります。
そのようなわけで、たった300m進むのに一回分使ってしましました。
撮影日は、2013年2月11日建国記念日の月曜日午後2時半。
この辺りからだいぶ晴れてきます。

ここは、五条富小路の南東角にある浄土宗佛性山本覚寺です。
先ずは、こちらに入っていきます。

本堂の方には入れないので、この境内までとなります。
本覚寺は、鎌倉時代初期に坊門信子(源実朝の後室)が建立しました。
一時期は多くの末寺を持つ大きな寺院でしたが、
応仁の乱などでどんどん小さくなってしまいました。
また、ここは江戸時代の「八文字屋本」の出版を行った
八文字屋自笑のお墓があります。

こちらは、本覚寺の鐘楼です。
向こうに棕櫚(しゅろ)の木が見えますが、
日本の神社仏閣には特に多い木ですね。

では、本覚寺を出ます。また富小路を南下します。

京都市街地の道は基本きれいに南北に伸びているのですが、
五条通から六条通にかけての富小路は少し傾きます。
(東の方にある鴨川が傾いている影響です)
ですから、今は富小路を南西に向いています。
向こうに京都タワーが見えるのは、そのためです。

本覚寺の斜め向かいに、徳林院があります。
ここは、10年くらい前まで洋裁学校でもありました。
寺院の中で、洋裁を教えていたようです。

徳林寺の南隣に、浄土宗塩竃山上徳寺があります。
今から、こちらに寄ります。

薬医門をくぐって、すぐに上徳寺の本堂があります。
こちらの本尊の阿弥陀如来は、快慶の作と言われています。
ここ上徳寺は、1603年に徳川家康が建立しました。
たびたび火災にあい、今の本堂は明治時代のものです。
ここは地蔵信仰の寺院で、この奥に地蔵堂があります。
安産のご利益があると言われていて、
今も多くの人の信仰を集めています。

こちらは、本堂の奥の地蔵堂です。
上手く写さないようにしていますが、、
本当はたくさんの参拝者がいらっしゃいました。
とりあえず、ここにお参りします。
その後は、この周囲にいらっしゃるお地蔵さんにもお参りします。

では、順番にお地蔵さんにお参りします。
(本当は順路が逆です。後で知りました……)
先ずは、地蔵堂の西側の身代わり地蔵尊です。
参拝者が受ける厄の身代わりになってくれるそうです。

身代わり地蔵尊の南隣に、歓喜地蔵がいらっしゃいました。
お姿が、だいぶ変わっていらっしゃいます。

次に、地蔵堂の南側にいらっしゃるお地蔵さんです。
右(西)側には、延命地蔵尊がお二人いらっしゃいました。

地蔵堂の南(裏)側中央には、水子地蔵尊がいらっしゃいます。
こちらには、たくさんの小さな卒塔婆が立っていました。

水子地蔵尊の左(東)隣りには、はがため地蔵尊がいらっしゃいます。
こちらは、歯と長寿のご利益があります。

地蔵堂を一周しました。
では、本堂の脇を通り抜けて外に向かいます。

では、上徳寺の薬医門を出て富小路の南下を続けます。

上徳寺の前から、富小路を南西に向いています。
よく見ると、寺院の隙間を縫うように家具屋や建具屋が並んでいます。
五条通以南の富小路は、夷川通と並ぶ昔ながらの「家具屋街」です。
(この日は祝日なので、全ての店が閉まっています)

上徳寺から、富小路を約50m南西に進みました。
左(東)側に路地が見え、その先に新善光寺が見えます。
長野県の善光寺の本尊を製作した仏師が、
こちらにも同じものを製作したので、この名称になりました。

新善光寺のある路地の前から、富小路を南西に約50m進みました。
こちらは、律宗太子堂白毫寺です。
元々は知恩院の辺りにありましたが、
安土桃山時代末期の慶長年間にこちらに移ってきました。
ご自身の作と言われている聖徳太子像が本尊ですが、
こちらの寺院は非公開です。

太子堂白毫寺の前から、富小路を南西に向きました。
この辺に、一番家具屋が集中しています。
約5m先にT字路が見えます。

富小路から、T字路を南東を向いています。
左(北)側は家具屋ですが、右(南)側は空き家が続きます。
ずっと先に、河原町通が見えます。
今からこちらに寄ります。

T字路から、南東に約50m進みました。
こちらは、金光寺です。時宗市屋派の本山です。
元々は、鎌倉時代半ばに一遍上人が七条堀川に建立しました。
鎌倉時代の絵巻物にも登場する寺院ですが、
残念ながらここも非公開です。

そして、金光寺の東隣りに市比売神社があります。
この日(2月11日)は祝日でたくさんの方が参拝されていました。
では、この中に入っていきます。

入り口近くの手水舎です。
先ずは、こちらで手と口を清めます。

では、いよいよ奥に行って参拝です。
写真の方に向かうと末社になりますので、
先にここより右側の本殿に向かいます。

こちらが、市比売神社の本殿です。
ちょうど祈祷中だったので、ここでお参りします。
市比売神社は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の妃である
神大市比売(カミオオイチヒメ)を初め5柱の女神を祀っています。
ここはかつて東側に遊郭があって、
そのため女人信仰の神社として多くの信仰を集めていました。
また神大市比売は「市」の神様でもあるので、
京都中央卸売市場の守護神社でもあります。

続いて、末社を回ります。先ずは、ここの井戸ですね。
ここは「天之眞名井」(あめのまない)と言って、
洛陽七名水の一つにも数えられています。
浮かんでいる赤い人形の中にはおみくじが入っています。

天之眞名井の奥にいらっしゃる祠です。
この井戸を守護しているものと思われます。

天之眞名井の左側には、老松稲荷がいらっしゃいます。
こちらにも、参拝しました。

老松稲荷の前で西を向きました。
アルミ製の箱みたいなものが、「カード塚」です。
その向こうに、たくさんの人が見えます。
この日は(2月11日)祝日だったこともあり、
ここはかなり賑わっていました。

では、市比売神社の外に出ます。

市比売神社から、富小路の方を向いています。
こうしてみると、西光寺が隣にあるのがよく分かります。
今から突き当りの富小路に向かいます。

市比売神社から富小路に戻り、
先ほどのT字路から南西に向きました。
南西角の和菓子屋さんは、生菓子や懐中最中がおいしいです。
余談ですが、この店は夕方に閉まります。
ただ、ここの主人が店先で就寝までテレビを見ていることがあるので、
午後10時くらいまでなら運が良ければ和菓子を買うことができます。

和菓子屋さんの南隣に、浄土宗連光寺があります。
残念ながら非公開ですが、ここに長宗我部盛親の首塚があります。
四国の戦国大名長宗我部元親の子で、大坂夏の陣で豊臣方に就き、
敗軍の将となって家族ともども斬首となりました。

連光寺から、南西に約30m進みました。
ここは、浄土宗長講堂です。京都人は、「六条院」と呼んでいます。
もともとこの辺りは
平安時代源融(みなもとのとおる。光源氏のモデルの一人)の住居で、
(北は五条通、南は六条通、西は東洞院の辺り。
鴨川に隣接していて、当時は河原町通や高瀬川はありませんでした)
後に里内裏(大内裏の外にある天皇の住居)となりました。
それとは別に、後白河上皇はこの寺院をもっと西に建立したのですが、
豊臣秀吉が京都を再建した際にここに移りました。
内部には後白河上皇関連の文化財が多くあり、
庭園も見事なのですが、毎年4月13日以外は非公開です。

長講堂の脇にある山茶花です。
きれいなので撮りました。この写真はクリックすると拡大されます。

長講堂の外から中の庭園をとりました。
ここから見るだけでも見事です。
この写真も、クリックすると拡大されます。

ここは、長講堂の塀の上です。
スズメが何羽か寄り添っていますね。
瓦には、しっかり「菊の御紋」が入っています。

この長講堂は、六条富小路の交差点にあります。
ここからさらに南に行って、文子天満宮に寄って
更に渉成園まで行きたいのですが、それは次回とします。
~次回はこの辺りをさらに散策しながら文子天満宮を目指します~
~2013年2月26日さらに追記~
富小路に寺院が集中するわけ
五条大路以南の富小路には、寺院が集中しています。
これは、大半が豊臣秀吉の政策によるものです。
応仁の乱以降の戦乱で京都はほぼ完全に焼失しましたが、
それを再建したのが豊臣秀吉です。
その際に豊臣秀吉は、京都のあちこちにあった寺院を
京都市街地の東端に並べました。
当時の京都市街地の東端は、寺町通でした。
そこで、寺町通は文字通り「寺が集中する通」になりました。
ただ、鴨川が五条大路付近から徐々に西にカーブしています。
(六条通付近で再び南に流れます)
そのため寺町通は五条大路までしかなく、
そこより南は富小路がその役割を担うことになりました。
~追記~
実はいったん五条富小路から文子天満宮までの回に編集したのですが、
そうすると写真がとびとびになり、このブログの特徴である
「歩いているような感覚」がなくなってしまいました。
やはり道順を丁寧に追っていかないと、
この辺の良さが伝わってきません。
そのため、この辺と文子天満宮周辺を割ることにしました。
その分、今回は富小路にこだわってみました。
~追追記~
この周辺の地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
富小路に寺院が集中するわけ
五条大路以南の富小路には、寺院が集中しています。
これは、大半が豊臣秀吉の政策によるものです。
応仁の乱以降の戦乱で京都はほぼ完全に焼失しましたが、
それを再建したのが豊臣秀吉です。
その際に豊臣秀吉は、京都のあちこちにあった寺院を
京都市街地の東端に並べました。
当時の京都市街地の東端は、寺町通でした。
そこで、寺町通は文字通り「寺が集中する通」になりました。
ただ、鴨川が五条大路付近から徐々に西にカーブしています。
(六条通付近で再び南に流れます)
そのため寺町通は五条大路までしかなく、
そこより南は富小路がその役割を担うことになりました。
~追記~
実はいったん五条富小路から文子天満宮までの回に編集したのですが、
そうすると写真がとびとびになり、このブログの特徴である
「歩いているような感覚」がなくなってしまいました。
やはり道順を丁寧に追っていかないと、
この辺の良さが伝わってきません。
そのため、この辺と文子天満宮周辺を割ることにしました。
その分、今回は富小路にこだわってみました。
~追追記~
この周辺の地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
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