第965回 角屋屋内を観覧~花屋町通東から西~その17
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前回ブログで訪れた町家カフェhyggeの前で、
東側通を南に向いています。
目の前で、東側通は花屋町通と交差します。
その先に、湯の宿「松栄」という旅館も見えます。
前回ブログでは最後は大雨が降っていましたが、
3日後の今回ブログでは強い日差しの中の撮影です。
今回は、角屋おもてなしの文化美術館を観覧します。
撮影日は、2023年6月29日木曜日午後2時。
やはり島原は、青空が似合います。

東側通から、花屋町通を西に向いています。
こうも日差しが強いと熱中症になりそうですが、
その分空の青が鮮やかですね。
花屋町通の左(南)側がきんせ旅館で、
右(北)側には製本所があります。

こちらが、きんせ旅館です。
島原が花街だったころは、こちらはお茶屋さんでした。
お茶屋さんはお客さんが食事と摂られる飲食店ですが、
料理は仕出し屋に注文してお店自身は調理をしません。
まぁ島原の大夫さんに会うのが、主目的のお店です。
こちらはいったんお茶屋さんを廃業された後、
現店主が旅館として再開されました。
お茶屋さんだった当時の部屋をそのまま利用しており、
結構人気のある旅館ですから予約などは必須です。
このブログ取材時の2015年5月21日では、
宿泊施設は2F部分で1Fはバーでした。
さらに1Fのバーは、昼間はカフェにもなりました。
当時は、洋酒を浸したシフォンケーキと紅茶を戴きました。
確証はないですが、おそらく現在もバーとカフェは開店しています。

きんせ旅館から、花屋町通を西に向いています。
この辺りから西に進むほど、京町屋の割合が増えます。

その京町屋の1軒に、こちらが貼り付けてありました。
「下京区西新屋敷中堂寺町」とありますが、
行政的には現在「島原」という地名は使っておらず、
この辺りは「下京区西新屋敷地区」と呼ばれています。

東側通から、花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、西側通と交差します。
後述の角屋おもてなしの文化美術館の方々は、
西側通を「揚屋通」(あげやどおり)と呼んでいらっしゃいました。
このブログでは、便宜上西側通と呼びます。

西側通から、花屋町通を西に向いています。
約50m先で花屋町通は突き当たっているように見えますが、
その辺りから花屋町通は蛇行し始めます。
木製の塀がある一帯がかつての揚屋角屋ですが、
塀の上に見える白いコンクリート製の建造物は、
JR嵯峨野線の高架です。
角に立つ道標にも、花屋町通の先に
JR嵯峨野線「丹波口」駅があることを示しています。
さらにその左(南)側に石碑が立っていて、
久坂玄瑞がこの角屋で密会を繰り返してことを書いています。

花屋町通から、西側通を北に向いています。
約200m先で西側通が突き当たっていますが、
その辺りが元花街島原の最北端です。

さらに花屋町通から、西側通を南に向きました。
右(西)側にに見える京町屋が、かつての揚屋の角屋です。
今回ブログの目的地ですね。
では、ここから西側通を南下します。

花屋町通から、西側通を南下しています。
右(西)側は、ずっと角屋の敷地が続きます。
幕末の角屋は、島原随一の高級揚屋でした。
その分価格も高く、新撰組隊士個人が
日常的に通える場所ではありませんでした。

花屋町通から、西側通を約50m南下しました。
こちらに、角屋の入り口があります。
ただこちらは角屋の勝手口で、
約20m北にある正面口は通常は閉鎖されています。
また現在角屋は揚屋を廃業していて、
「角屋おもてなし文化の美術館」として再生しています。

勝手口から、角屋おもてなし文化美術館に入ってきました。
現在の角屋は、かつて揚屋だった当時に残されていた
屋内の施設や美術品を当時のままの状態で拝観できます。
ここからこの先にある建物の中に入り角屋の内部を拝観しますが、
ここから暫く写真撮影禁止区域に入ります。

その手前に、周辺地図が掛かっていました。
置き屋さんの輪違屋は書いてありますが、
元花街島原の他の施設はこの角屋以外は載っていません。
先ほどの建物に入ると、先に拝観料を納めます。
1F部分だけを拝観するならその際に1,000円納めます。
さらに2F部分も拝観するなら追加で800円納めます。
せっかく角屋に来たのですから、
1,800円納めて1Fと2F両方を拝観することにしました。
またこちらの拝観には、学芸員さんが随行されます。
そのため自分のタイミングで出発できず、
決まった時間で出発します。
自分も、屋内で約30分待ちました。
この建物の内部で、呉春を中心に四条派の展覧会が催されていました。
時間まで、そちらを拝観していました。
平日の角屋おもてなし文化美術館では、
最初に2Fを拝観して、そのあとで1Fを拝観します。
また1Fは大半が写真撮影可能ですが、
2Fはすべての場所で撮影が禁止です。

2023年6月29日木曜日午後2時半ごろから
角屋おもてなし文化美術館の2Fを拝観し始めて、約30分経ちました。
つまり、この時点で2023年6月29日木曜日午後3時です。
角屋の2Fから箱階段を降りると、一番奥の部屋に出ました。
こちらからは1Fなので、写真撮影が可能です。
角屋最大の部屋で、「松の間」といいます。
ここまで大きいと、通常は宴会場として利用されていました。
左(北)側が床の間で、主賓の席ですね。

こちらも、先ほどと同じ「松の間」です。
この部屋で芹沢鴨が主賓で新撰組が宴会を開き、
その日の深夜に芹沢鴨が暗殺されました。
後述しますが芹沢鴨はこの島原でたびたび暴力事件を起こしていて、
この角屋でも何度か問題を起こしています。

松の間で床の間を背後に、角屋の庭園を眺めています。
この下がり松が角屋の象徴で、この部屋の名前の由来です。
床の間から眺めると、このような景色になります。
下がり松の背後に茶室が立っているのは、
こちらが創建された当時の流行りの建築様式です。
現在は下がり松の上にJR嵯峨野線の高架が見えますが、
新撰組が活躍していたころはここより西は田畑でした。
ですから、角度によっては嵐山が小さく見えたそうです。
またこの庭の縁側や脇の畳の上で、
大夫さんが日本舞踊をよく舞っておられたようです。
床の間か見ると、太夫さんの舞踏が
下がり松を背景に見物できます。

松の間から南へ、廊下が続いています。
この先に、また別の部屋があります。
角屋には合わせて10部屋ほどあって、
当時は毎晩これらの部屋で宴会が饗されていました。

その廊下の突き当りに、こちらの部屋があります。
中庭があるこの部屋は、2018年8月19日にも訪れました。

こちらが、この部屋の床の間です。
先ほどの部屋はなかなか華やかでしたが、
こちらの部屋は落ち着いた感じですね。

床の間の向かい側には、長谷川等伯の襖絵です。
ただ残念ながら、こちらは煤で黒ずんでいます。
揚屋だった角屋は、毎晩宴会が催されていました。
その際ずっとロウソクを灯し続けていて、
そのうち角屋の屋内中煤で黒ずんできたそうです。
この角屋が重要文化財に指定された際煤は掃除されましたが、
こういう絵画は煤が付いたまま保存されています。

今度はその廊下から、南に廊下が伸びています。
その先が玄関で、角屋に来られたお客さんはこの廊下を通ります。
つまりこちらの部屋は、玄関先から見えます。

角屋の玄関から、南を向いています。
この突き当りを左(東)に曲がると、角屋の正面口です。
ですから、この位置でお客さんは奉公人に歓待されます。

角屋に来られたお客さんは商人もいらっしゃいましたが、
その多くが武士でした。
もちろん部屋の中に刀を持ち込むことは、禁止されています。
ですからこの玄関先で奉公人が刀を預かり、
この棚に並べられていました。

とは言え、身分の高い武士の場合には刀自体が高級で
下手をすると盗難の危険性も発生します。
そういう場合は、奉公人がこちらで管理されておられたようです。

角屋の玄関の脇に、帳場があります。
江戸時代は、ここを「台所」と呼んでいました。
1863年に水戸藩士が「新撰組は乱暴者だ」と
京都市街地に広めたことがありました。
それを抗議した芹沢鴨をなだめるため、
水戸藩士がこの角屋で芹沢鴨を主賓に宴会を開きました。
その際酒に酔った芹沢鴨はこの帳場で
角屋の店主に殴りかかり大怪我をさせました。
新撰組を管理する会津藩主松平容保は、
その事件を聞き芹沢鴨に対し叱責しましたが、
芹沢鴨は松平容保に対して無礼な態度を取りました。
そのことに怒った松平容保が命じて、
芹沢鴨が殺されたという説が、近年有力になっているそうです。

先ほどの帳場より南は、奉公人が働く場所です。
半分が畳で、半分が土間です。
要するにこの辺りは、厨房(今で言う台所)です。
薩摩藩主に従い角屋に来た西郷隆盛の労をねぎらうために、
角屋の奉公人がこのたらいに水をためて、
西郷隆盛の足をたらいに漬けて疲れを取ったそうです。
1938年の国家総動員法でこの角屋の取り壊しが決まったのですが、
その通達に来た当時の役人がこのたらいを発見し、
「維新の英雄である西郷隆盛の遺品がある店は、取り壊せない」
と言い出して、現在も角屋の家屋は残ったそうです。

土間のいちばん奥に、井戸があります。
開業当時は、こちらの水で調理をしていたようです。

土間には、竈(かまど)が並んでます。
こちらではご飯を炊くだけでなく、様々な煮物もできます。

そして勝手口の近くに大きな竈がありましたが、
こちらは象徴的なものなのでしょうか、
釜の上に榊が飾ってあって、壁には愛宕神社の札が貼ってあります。
京都では、火災除けによく愛宕神社のお札を貼り付けます。

先ほどの竈の北側で東を向くと、角屋さんの正門です。
この日は勝手口だけ開いており、こちらは閉まっています。
門の裏側に様々なお札が貼られていますが、
京都の古い飲食店では、このように門のあちこちに
様々なお札をよく貼り付けています。

角屋正門から、南を向いています。
この先が厨房で、自分はこちらからここに来ました。

今度は角屋正門から、北を向きました。
こちらはお客さんが進む道です。
この先に玄関があって、その先に先ほどの庭園が見えます。

そして角屋正門脇に、冷蔵所があります。
用途は現在の冷蔵庫の同じですが、
別に電気で冷やしているわけではありません。
深く穴が掘られており、その穴が高い位置より気温が低い訳です。

その冷蔵所の脇に、駕籠が置かれていました。
宴会中に酔いつぶれて帰れなくなる人は結構いらしたようで、
その方々のために、初めから駕籠が置かれていたそうです。

これで、角屋おもてなし文化美術館を一通り拝観しました。
では、こちらから角屋おもてなし文化美術館を出ます。
ここから花屋町通をさらに市に進み、元花街島原を出ます。
その間に、あちこちの神社に参拝します。
ただちょうど切りがよいので、今回はここまでです。
~次回は、島原住吉神社に参拝します~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
角屋おもてなし文化美術館が、起点です。
~追記 その2~
角屋おもてなし文化美術館が
京の夏の旅で公開されます
以降は、角屋おもてなし文化美術館の学芸員さんから聞きました。
芹沢鴨が暗殺されてから、今年(2023年)で160年です。
そこで、2023年の京の夏の旅は
こちらを公開することになったようです。
おそらく有料コースよりは短縮されるでしょうが、
それでもこちらの一部を無料公開されるようです。
まぁあくまで予定で、自分は詳細を知りません。
~追記 その3~
抹茶タルトを作ろう その4

2023年6月27日火曜日に、
ウチの母と烏龍茶で茶会をしました。
その際に、抹茶タルトも戴きました。

杏仁豆腐を作って、戴きました。
ちなみに杏仁豆腐が白いのは、牛乳で着色しています。

そして、こちらが抹茶タルトです。
クッキー生地の中に、抹茶プリンが入っています。
クリームを濃くすると、味が濃厚になります。
進みたい方は、ここをクリックしてください。

前回ブログで訪れた町家カフェhyggeの前で、
東側通を南に向いています。
目の前で、東側通は花屋町通と交差します。
その先に、湯の宿「松栄」という旅館も見えます。
前回ブログでは最後は大雨が降っていましたが、
3日後の今回ブログでは強い日差しの中の撮影です。
今回は、角屋おもてなしの文化美術館を観覧します。
撮影日は、2023年6月29日木曜日午後2時。
やはり島原は、青空が似合います。

東側通から、花屋町通を西に向いています。
こうも日差しが強いと熱中症になりそうですが、
その分空の青が鮮やかですね。
花屋町通の左(南)側がきんせ旅館で、
右(北)側には製本所があります。

こちらが、きんせ旅館です。
島原が花街だったころは、こちらはお茶屋さんでした。
お茶屋さんはお客さんが食事と摂られる飲食店ですが、
料理は仕出し屋に注文してお店自身は調理をしません。
まぁ島原の大夫さんに会うのが、主目的のお店です。
こちらはいったんお茶屋さんを廃業された後、
現店主が旅館として再開されました。
お茶屋さんだった当時の部屋をそのまま利用しており、
結構人気のある旅館ですから予約などは必須です。
このブログ取材時の2015年5月21日では、
宿泊施設は2F部分で1Fはバーでした。
さらに1Fのバーは、昼間はカフェにもなりました。
当時は、洋酒を浸したシフォンケーキと紅茶を戴きました。
確証はないですが、おそらく現在もバーとカフェは開店しています。

きんせ旅館から、花屋町通を西に向いています。
この辺りから西に進むほど、京町屋の割合が増えます。

その京町屋の1軒に、こちらが貼り付けてありました。
「下京区西新屋敷中堂寺町」とありますが、
行政的には現在「島原」という地名は使っておらず、
この辺りは「下京区西新屋敷地区」と呼ばれています。

東側通から、花屋町通を約50m西に進みました。
ここで花屋町通は、西側通と交差します。
後述の角屋おもてなしの文化美術館の方々は、
西側通を「揚屋通」(あげやどおり)と呼んでいらっしゃいました。
このブログでは、便宜上西側通と呼びます。

西側通から、花屋町通を西に向いています。
約50m先で花屋町通は突き当たっているように見えますが、
その辺りから花屋町通は蛇行し始めます。
木製の塀がある一帯がかつての揚屋角屋ですが、
塀の上に見える白いコンクリート製の建造物は、
JR嵯峨野線の高架です。
角に立つ道標にも、花屋町通の先に
JR嵯峨野線「丹波口」駅があることを示しています。
さらにその左(南)側に石碑が立っていて、
久坂玄瑞がこの角屋で密会を繰り返してことを書いています。

花屋町通から、西側通を北に向いています。
約200m先で西側通が突き当たっていますが、
その辺りが元花街島原の最北端です。

さらに花屋町通から、西側通を南に向きました。
右(西)側にに見える京町屋が、かつての揚屋の角屋です。
今回ブログの目的地ですね。
では、ここから西側通を南下します。

花屋町通から、西側通を南下しています。
右(西)側は、ずっと角屋の敷地が続きます。
幕末の角屋は、島原随一の高級揚屋でした。
その分価格も高く、新撰組隊士個人が
日常的に通える場所ではありませんでした。

花屋町通から、西側通を約50m南下しました。
こちらに、角屋の入り口があります。
ただこちらは角屋の勝手口で、
約20m北にある正面口は通常は閉鎖されています。
また現在角屋は揚屋を廃業していて、
「角屋おもてなし文化の美術館」として再生しています。

勝手口から、角屋おもてなし文化美術館に入ってきました。
現在の角屋は、かつて揚屋だった当時に残されていた
屋内の施設や美術品を当時のままの状態で拝観できます。
ここからこの先にある建物の中に入り角屋の内部を拝観しますが、
ここから暫く写真撮影禁止区域に入ります。

その手前に、周辺地図が掛かっていました。
置き屋さんの輪違屋は書いてありますが、
元花街島原の他の施設はこの角屋以外は載っていません。
先ほどの建物に入ると、先に拝観料を納めます。
1F部分だけを拝観するならその際に1,000円納めます。
さらに2F部分も拝観するなら追加で800円納めます。
せっかく角屋に来たのですから、
1,800円納めて1Fと2F両方を拝観することにしました。
またこちらの拝観には、学芸員さんが随行されます。
そのため自分のタイミングで出発できず、
決まった時間で出発します。
自分も、屋内で約30分待ちました。
この建物の内部で、呉春を中心に四条派の展覧会が催されていました。
時間まで、そちらを拝観していました。
平日の角屋おもてなし文化美術館では、
最初に2Fを拝観して、そのあとで1Fを拝観します。
また1Fは大半が写真撮影可能ですが、
2Fはすべての場所で撮影が禁止です。

2023年6月29日木曜日午後2時半ごろから
角屋おもてなし文化美術館の2Fを拝観し始めて、約30分経ちました。
つまり、この時点で2023年6月29日木曜日午後3時です。
角屋の2Fから箱階段を降りると、一番奥の部屋に出ました。
こちらからは1Fなので、写真撮影が可能です。
角屋最大の部屋で、「松の間」といいます。
ここまで大きいと、通常は宴会場として利用されていました。
左(北)側が床の間で、主賓の席ですね。

こちらも、先ほどと同じ「松の間」です。
この部屋で芹沢鴨が主賓で新撰組が宴会を開き、
その日の深夜に芹沢鴨が暗殺されました。
後述しますが芹沢鴨はこの島原でたびたび暴力事件を起こしていて、
この角屋でも何度か問題を起こしています。

松の間で床の間を背後に、角屋の庭園を眺めています。
この下がり松が角屋の象徴で、この部屋の名前の由来です。
床の間から眺めると、このような景色になります。
下がり松の背後に茶室が立っているのは、
こちらが創建された当時の流行りの建築様式です。
現在は下がり松の上にJR嵯峨野線の高架が見えますが、
新撰組が活躍していたころはここより西は田畑でした。
ですから、角度によっては嵐山が小さく見えたそうです。
またこの庭の縁側や脇の畳の上で、
大夫さんが日本舞踊をよく舞っておられたようです。
床の間か見ると、太夫さんの舞踏が
下がり松を背景に見物できます。

松の間から南へ、廊下が続いています。
この先に、また別の部屋があります。
角屋には合わせて10部屋ほどあって、
当時は毎晩これらの部屋で宴会が饗されていました。

その廊下の突き当りに、こちらの部屋があります。
中庭があるこの部屋は、2018年8月19日にも訪れました。

こちらが、この部屋の床の間です。
先ほどの部屋はなかなか華やかでしたが、
こちらの部屋は落ち着いた感じですね。

床の間の向かい側には、長谷川等伯の襖絵です。
ただ残念ながら、こちらは煤で黒ずんでいます。
揚屋だった角屋は、毎晩宴会が催されていました。
その際ずっとロウソクを灯し続けていて、
そのうち角屋の屋内中煤で黒ずんできたそうです。
この角屋が重要文化財に指定された際煤は掃除されましたが、
こういう絵画は煤が付いたまま保存されています。

今度はその廊下から、南に廊下が伸びています。
その先が玄関で、角屋に来られたお客さんはこの廊下を通ります。
つまりこちらの部屋は、玄関先から見えます。

角屋の玄関から、南を向いています。
この突き当りを左(東)に曲がると、角屋の正面口です。
ですから、この位置でお客さんは奉公人に歓待されます。

角屋に来られたお客さんは商人もいらっしゃいましたが、
その多くが武士でした。
もちろん部屋の中に刀を持ち込むことは、禁止されています。
ですからこの玄関先で奉公人が刀を預かり、
この棚に並べられていました。

とは言え、身分の高い武士の場合には刀自体が高級で
下手をすると盗難の危険性も発生します。
そういう場合は、奉公人がこちらで管理されておられたようです。

角屋の玄関の脇に、帳場があります。
江戸時代は、ここを「台所」と呼んでいました。
1863年に水戸藩士が「新撰組は乱暴者だ」と
京都市街地に広めたことがありました。
それを抗議した芹沢鴨をなだめるため、
水戸藩士がこの角屋で芹沢鴨を主賓に宴会を開きました。
その際酒に酔った芹沢鴨はこの帳場で
角屋の店主に殴りかかり大怪我をさせました。
新撰組を管理する会津藩主松平容保は、
その事件を聞き芹沢鴨に対し叱責しましたが、
芹沢鴨は松平容保に対して無礼な態度を取りました。
そのことに怒った松平容保が命じて、
芹沢鴨が殺されたという説が、近年有力になっているそうです。

先ほどの帳場より南は、奉公人が働く場所です。
半分が畳で、半分が土間です。
要するにこの辺りは、厨房(今で言う台所)です。
薩摩藩主に従い角屋に来た西郷隆盛の労をねぎらうために、
角屋の奉公人がこのたらいに水をためて、
西郷隆盛の足をたらいに漬けて疲れを取ったそうです。
1938年の国家総動員法でこの角屋の取り壊しが決まったのですが、
その通達に来た当時の役人がこのたらいを発見し、
「維新の英雄である西郷隆盛の遺品がある店は、取り壊せない」
と言い出して、現在も角屋の家屋は残ったそうです。

土間のいちばん奥に、井戸があります。
開業当時は、こちらの水で調理をしていたようです。

土間には、竈(かまど)が並んでます。
こちらではご飯を炊くだけでなく、様々な煮物もできます。

そして勝手口の近くに大きな竈がありましたが、
こちらは象徴的なものなのでしょうか、
釜の上に榊が飾ってあって、壁には愛宕神社の札が貼ってあります。
京都では、火災除けによく愛宕神社のお札を貼り付けます。

先ほどの竈の北側で東を向くと、角屋さんの正門です。
この日は勝手口だけ開いており、こちらは閉まっています。
門の裏側に様々なお札が貼られていますが、
京都の古い飲食店では、このように門のあちこちに
様々なお札をよく貼り付けています。

角屋正門から、南を向いています。
この先が厨房で、自分はこちらからここに来ました。

今度は角屋正門から、北を向きました。
こちらはお客さんが進む道です。
この先に玄関があって、その先に先ほどの庭園が見えます。

そして角屋正門脇に、冷蔵所があります。
用途は現在の冷蔵庫の同じですが、
別に電気で冷やしているわけではありません。
深く穴が掘られており、その穴が高い位置より気温が低い訳です。

その冷蔵所の脇に、駕籠が置かれていました。
宴会中に酔いつぶれて帰れなくなる人は結構いらしたようで、
その方々のために、初めから駕籠が置かれていたそうです。

これで、角屋おもてなし文化美術館を一通り拝観しました。
では、こちらから角屋おもてなし文化美術館を出ます。
ここから花屋町通をさらに市に進み、元花街島原を出ます。
その間に、あちこちの神社に参拝します。
ただちょうど切りがよいので、今回はここまでです。
~次回は、島原住吉神社に参拝します~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
角屋おもてなし文化美術館が、起点です。
~追記 その2~
角屋おもてなし文化美術館が
京の夏の旅で公開されます
以降は、角屋おもてなし文化美術館の学芸員さんから聞きました。
芹沢鴨が暗殺されてから、今年(2023年)で160年です。
そこで、2023年の京の夏の旅は
こちらを公開することになったようです。
おそらく有料コースよりは短縮されるでしょうが、
それでもこちらの一部を無料公開されるようです。
まぁあくまで予定で、自分は詳細を知りません。
~追記 その3~
抹茶タルトを作ろう その4

2023年6月27日火曜日に、
ウチの母と烏龍茶で茶会をしました。
その際に、抹茶タルトも戴きました。

杏仁豆腐を作って、戴きました。
ちなみに杏仁豆腐が白いのは、牛乳で着色しています。

そして、こちらが抹茶タルトです。
クッキー生地の中に、抹茶プリンが入っています。
クリームを濃くすると、味が濃厚になります。
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