第188回 新撰組が闊歩した壬生~壬生散策~その3

壬生寺本堂前から、門のある東を向いています。
壬生寺の節分行事も一通り見たのでもう帰ってもいいのですが、
せっかくなので新撰組関連施設を回りたいと思います。
撮影日は、2014年2月3日日曜日午後3時。
久しぶりに写真が40枚を越えました。

先ほどの写真の左(北)側が、こちらに抜けるようになっています。
では、こちらの方に入っていきます。

入ってすぐの正面に、水掛地蔵尊がいらっしゃいます。
こちらにも、たくさんの方がお参りしています。

水掛地蔵尊の右(東)側に、こちらの灯明があります。
50円払って、こちらにろうそくを立てました。

水掛地蔵尊の右(東)側に、弁財天の祠があります。
こちらは秘仏ですが、この時期は特別に御開帳されています。
近寄って祠を覗くと、小さな弁財天がいらっしゃいます。

弁財天のさらに右(東)に、こちらの阿弥陀堂があります。
中には阿弥陀如来がいらっしゃいます。(撮影不可です)
さらに、このお堂はもう一つの顔があります。

阿弥陀堂から、北側に抜けることができます。
ここからは、有料になります。(100円です)
つまり阿弥陀堂は、ここから先の拝観料を払うところでもあります。

橋を渡ると、小さな池の上にある小島にたどり着きます。
こちらは「壬生塚」と呼ばれる壬生寺の新撰組関連施設です。
歴代住職や新撰組隊員のお墓があります。
(新選組隊士の遺体は、別の所に埋葬されています)

壬生塚に入ってすぐに、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいます。
池の向こうに、阿弥陀堂が見えますね。
阿弥陀堂は比較的新しい建物で、
地下には、新撰組関連の博物館があります。
(節分以外なら、拝観料を払えば見ることができます)

お地蔵さんの東側に、新撰組隊士の慰霊塔があります。
こちらは、近年建てられました。

こちらは柿本人麻呂のお墓で、「人丸塚」と呼ばれています。
このお墓は見た所古くて数百年というところですが、
柿本人麻呂は1200年以上前の歌人です。
どう考えても、偽物ですね。

壬生塚の一番東側に、近藤勇の銅像が立っています。
近藤勇のお墓は、愛知県や東京都、福島県会津若松市などにあります。
こちらの銅像は、映画会社の関係者が戦後に建てられたものです。

壬生塚の一番奥に(写真左)、芹沢鴨と平山五郎のお墓があります。
どちらも新撰組隊員でしたが、近藤勇らによって殺されました。
(要するに、派閥争いです)
2年前にここを訪れた第27回ブログとお墓の形状が違いますが、
昨年このお墓に直されました。(初めのお墓と同じ形状だそうです)
最初のお墓は、イタズラによって破壊されました。
(今回の追記参照)

芹沢鴨のお墓の右(南)側にも、新撰組隊員のお墓があります。
河合耆三郎のお墓がひときわ立派ですが、
これは、河合耆三郎の父親が
(兵庫県南西部で、米屋を経営していた大金持ちです)
河合耆三郎が新撰組の規約違反で切腹させられたことへの抗議として
このような立派なお墓を作ったそうです。
(河合耆三郎は、新撰組の経理担当者でした)

では、壬生塚を出ます。
またいったん阿弥陀堂の中に入っていきます。

阿弥陀堂を出て、参道に戻ってきました。
東側にある門をくぐり、壬生寺を出ます。

壬生寺を出て、坊城通で北を向きました。
右(東)側は、新徳禅寺です。
第186回ブログでも紹介した新撰組の事実上発祥の地です。
普段は非公開なのですが、この日は境内で炮烙焼を売っていました。

壬生寺門の前から、坊城通を北に約100m進みました。
壬生寺の北隣に、「鶴屋」という和菓子屋さんがあります。
ここの経営者八木家の屋敷に、
新撰組が2年間ほど屯所を設けていました。
つまりここが、「新撰組屯所」八木邸です。

拝観料の1,000円(後の抹茶と菓子代込)払い、中庭を通り抜けました。
ここから先は、江戸時代末期当時のままになっています。
ここ八木邸は、京都市内で残り少なくなった武家屋敷です。
(八木氏は戦国大名朝倉氏の末裔で、京都府八木町の豪農でした)
中に入ると、大きな座敷があります。
そこが先ほど紹介した芹沢鴨と平山五郎暗殺現場です。
そこには学芸員がおられて、この建物の解説をしてくれます。
ここは1Fの座敷と奥の部屋のみ公開されています。
(そこから見える庭も公開されています)

座敷を抜けて、「たたき」に出ると
壬生狂言の笛や太鼓が聞こえてきました。
角度によっては、ここから狂言が少し見えました。
次に、中庭に出ました。
引換券を渡すと、こちらの抹茶と大福がもらえます。
和菓子屋さんだけあって、なかなかのお味でした。
この日は、今年一番の冷え込みでした。
ですから、このような小さな火鉢が置かれていました。

八木邸(鶴屋)の前で、坊城通を北に向きました。
右(東)の塀は、旧前川邸ですね。
ここから約50m先の綾小路を目指します。

綾小路坊城の北西角に、道標がありました。
「左 壬生寺」はいいのですが、
「右 二条城」は徒歩で行ったら1時間くらいかかります……

その綾小路坊城北西角にある「幸福堂」です。
金つばの専門店ですが、節分ということでかなりの人出でした。

こちらが、その金つばです。
甘みが弱く、却ってそれが上品な味を出しています。
家に帰ってからいただきました。

「幸福堂」を出た所で、こちらの犬に出会いました。
慌ててカメラを取り出そうとしたのですが、
間に合わずに後姿だけ撮ることにしました。

坊城通から、綾小路を東に向いています。
坊城綾小路南東角に、旧前川邸があります。
新撰組隊士が増えすぎて八木邸に入りきらなくなって、
後にこちらにも新撰組隊士が住むようになりました。

こちらが、旧前川邸の入り口です。
平日は非公開なのですが日曜日のみ公開されています。

実は、ここに入るのは初めてで
どこまで公開されているのかよく分かりませんでした。
後で調べたところ、土蔵は公開されていて
「池田屋事件」の発端となった長州浪士を拷問した部屋や
山南敬助や野口健二らが切腹した部屋も公開されていたそうです。
ただこの日お邪魔したのは、結局グッズショップだけでした。
模造刀や新撰組グッズが置かれていました。

では、旧前川邸を出ます。
ここからは、来たときと違い綾小路から帰ります。

旧前川邸の前で、綾小路を東に向いています。
右(南)側の塀は、旧前川邸のものです。
では、ここを東に進んで大宮通を目指します。

旧前川邸から、綾小路を東に約100m進みました。
こちらの酒屋さんは、以前通ったとき
「近藤勇 土方歳三 沖田総司」という
銘柄のお酒を売っていました。
その向こうに見えるのは、壬生川通です。

そのお酒屋さんの向かいにいらしたお地蔵さんです。
2年前にここに来たときも、寄らせていただきました。

綾小路から、壬生川通を北に向いています。
向こうに京福電車(嵐電)の線路があり、
その先に第186回ブログで紹介した四条通が見えます。

今度は、綾小路から壬生川通を南に向きました。
約1km先にある五条通を越えると、かつての花街「島原」に出ます。
(芹沢鴨がよく遊びに行ったところですね)
また、「島原」より東には
壬生の後に新撰組屯所があった西本願寺があります。

壬生川通から、綾小路を東に向いています。
さすがにここから先は、人出がだいぶ減ります。

壬生川通から、綾小路を20mほど東に進みました。
自動車がやっと1台通れるくらいの細い道に、
古い民家や飲食店などが並んでいます。
実はこの辺りが、京都市内で自分が一番好きな街並みです。
古い民家が何軒も並んでいるこの感じがいいですね。

壬生川通から、綾小路を東に150mほど進みました。
この辺りから、「京都中京区」から「京都市下京区」になります。
こちらは、浄土宗光縁寺です。
江戸時代末期ここの住職と新撰組隊士山南敬助が親しくなり、
その縁でここに新撰組隊士が埋葬されるようになりました。

この入口から、中に入ることができます。
本堂には入れませんが、100円払うと
境内北側にある墓地に参ることができます。

さすがに中を直接撮るのははばかれるので、
ここのパンフレットを撮った写真を貼り付けます。
右側は、過去帳の写しです。
自分が知っているのは、
1.野口建司(写真から外れています) 3.山南敬助
7.松原忠治 10.河合耆三郎 27.伊東甲子太郎
このくらいでしょうか。
いずれも、切腹した人か暗殺された人です。
門の中に入るとたまたま住職さんと鉢合わせして、
暫らくいろいろお話を聞かせていただきました。
わずか3基のお墓に28人も入っているので、
墓の下に彼らが埋まっているわけではないそうです。
寺院の北側の当時の空き地(現在は京福電車の線路)の下に
埋まっているそうです。

光縁寺の前から、綾小路を東に向いています。
この辺りから、両脇に小さな寺院が軒を並べます。

光縁寺から、綾小路を東に約100m進みました。
ようやく大宮通との交差点にでました。
綾小路はもう少し東に伸び、寺町通の京都大神宮で突き当ります。
(第157回ブログ参照)

綾小路から、大宮通を北に向いています。
北西角にあるこの中華料理屋さんは、京都でも屈指の四川料理店です。
(担担麺がおいしいです)

綾小路から、大宮通を北に歩いています。約100mで四条通です。
そこからまた阪急電車に乗って、(地下鉄です)家に帰ります。
今回はここまでです。
~次回からまた新しい道を歩いていきます~
~追記~
負ければ賊軍のお話
今回ブログで、芹沢鴨と平山五郎のお墓がイタズラで
損壊した話が出てきました。
その動機はいくつかあるでしょうが、
京都では数十年前まで新撰組はあまりよく言われていませんでした。
確かに新撰組の中には芹沢鴨など乱暴狼藉を働いた者もいましたが、
大半は規律正しい集団でしたし、長州藩士にも乱暴者はいました。
その意味では江戸時代末期には、
新撰組はそれほど評判も悪くなかったのですが、
戊辰戦争が終わった明治時代以降は
「悪者の集団」として捉えられていました。
善悪はどうあれ、新撰組は明治政府と対立した集団ですし、
「勤王の志士」を讃えるためには、
どうしても新撰組を敵役とするしかなかったのです。
状況が変わるのは、1945年以降(特に1960年代以降)です。
近藤勇や沖田聡司を描くTVドラマの登場などが大きかったようです。
~追追記~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
負ければ賊軍のお話
今回ブログで、芹沢鴨と平山五郎のお墓がイタズラで
損壊した話が出てきました。
その動機はいくつかあるでしょうが、
京都では数十年前まで新撰組はあまりよく言われていませんでした。
確かに新撰組の中には芹沢鴨など乱暴狼藉を働いた者もいましたが、
大半は規律正しい集団でしたし、長州藩士にも乱暴者はいました。
その意味では江戸時代末期には、
新撰組はそれほど評判も悪くなかったのですが、
戊辰戦争が終わった明治時代以降は
「悪者の集団」として捉えられていました。
善悪はどうあれ、新撰組は明治政府と対立した集団ですし、
「勤王の志士」を讃えるためには、
どうしても新撰組を敵役とするしかなかったのです。
状況が変わるのは、1945年以降(特に1960年代以降)です。
近藤勇や沖田聡司を描くTVドラマの登場などが大きかったようです。
~追追記~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
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