第434回 夷川豆政の五色豆~高倉通南から北~その21
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二条通から、高倉通を北に向いています。
この先に、高倉通の突き当り京都御苑の森林が見えますね。
今回は、夷川通でうろうろしてからその突き当りまで進みます。
撮影日は、2016年10月27日木曜日午後3時半。
今回で、「高倉通編」が終わります。

二条通より北に進むと、高倉通には途端に京町家が激減します。
代わりに駐車場とマンションが増えていきますが、
お地蔵さんだけはこんな風に昔と変わらずいらっしゃいます。

さらに、この辺りでは空き地も見受けられるようになりました。
だんだんと確実に京町家が減ってきている京都市街地の現実が、
こういうところからでも分かります。

ただこのように、この辺りでも何軒かは京町家が残っています。
こちらは外国人向けの宿泊施設です。
この写真は、クリックすれば拡大します。

二条通から、高倉通を約100m北上しました。
高倉通は、ここで夷川通と交差します。

高倉通から、夷川通を東に向いています。
烏丸通~寺町通間の夷川通は、京都屈指の家具屋街です。
(詳細は、第202回ブログと第203回ブログを参照)

この辺りは幕末の1864年禁門の変の後に起こったどんどん焼けで
最も大きな被害が出た場所です。
京都は江戸時代の末期から明治時代初めまで
復興のためにこの辺りに家具屋や左官屋が集中しました。
それが夷川通の「家具屋街」の原型となりました。
今では真新しいインテリア家具を売るビルも増えましたが、
こちらの「万市」さんのように京町家の昔ながらの店もあります。

「万市」さんには、第202回ブログでもお邪魔しました。
やはりこちらに来たら、高く積み上げた火鉢が目に入ります。
いつもより火鉢の量が少なめなのは、
気温が下がっていくつか売れたからでしょうね。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

「万市」さんといいますか、高倉通から夷川通を東に向いています。
左(北)に見えるのは家具屋さんの「宮崎平安堂」で、
右(南)も1Fは「宮崎平安堂」ですが、その上はマンションです。
この「家具屋街」も、だんだん家具屋さんよりも
マンションが目立つようになってきました。

高倉通から夷川通を東に進み、堺町通で北を向きました。
約250m先に、京都御苑の堺町御門が見えます。
毎年5月15日に開かれる葵祭では、
この門から巡行行列が京都市街地へと出て行きます。
そして、先述のどんどん焼けではこの堺町御門付近が火元でした。
そのどんどん焼けでは、京都市街地の中心部が全焼しました。
祇園祭の山鉾の大半が、いったんこの時点でほぼ焼失しました。
さらに、これが首都が京都から東京に移転した一因でもあります。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

「夷川堺町」の辻の南東角にある家具屋さんに、
大きなショウウィンドウがあります。
そちらには商品の家具ではなく、
小学生が描いた絵画などが展示されています。
この写真も、クリックしたら拡大されます。

堺町通から、夷川通を東に向いています。
約50m先に、柳馬場通が見えます。
ただ、その手前に大きな京町家が見えますね。

こちらが、その京町家です。京菓子の老舗「豆政」の本店です。
最近はいろいろ京名物が増えましたが、
そういうものの最初の1軒ですね。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

豆政で、こちらのお菓子を買いました。
左が、ここの名物「五色豆」です。
エンドウ豆に、色のついた砂糖が掛かっています。
実は、それぞれの色で味が微妙に違います。
特に茶色のものはニッキ(シナモン)味で、
自分はこれが一番のお気に入りです。
右は、エンドウ豆が入ったあられ以外にも
煮干しや小さなせんべいが入っています。
こちらの創業は明治時代の半ばですが、
それ以来八つ橋と並ぶ京名物と呼ばれてきました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

「豆政」の前で、夷川通を東に向いています。
この先の富小路から、また家具屋が建ち並ぶようになります。
柳馬場通を通り過ぎると、約300m先の寺町通で
いったん夷川通は突き当たります。
(詳細は、第161回ブログ参照)

今度は、「豆政」から夷川通を西に向きました。
では、こちらから高倉通に戻ります。

再び「夷川高倉」の辻に戻ってきました。
辻の北西角は先述の「宮崎平安堂」ですが、
北東角の京町家はお惣菜やお弁当のお店です。
(一見、パン屋に見えますね)
この近くにオフィスが多く(京都地方裁判所も近くです)
お昼時には結構流行っています。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

堺町通から、夷川通を西に向いています。
夷川通の両脇が、家具屋さんの「宮崎平安堂」ですね。
では、さらにここを進んでいきます。

先程の「万市」さんの前まで戻ってきました。
「万市」さんの左(西)側に、高倉通が伸びています。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

夷川通から、高倉通を北に向いています。
では、この突き当りまで歩いていきます。

夷川通から、高倉通を北上しています。
夷川通より北に進むと、またぽつぽつと京町家が復活します。
この写真も、クリックすると拡大されます。

その京町家の向かいに、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいました。
こちらにもお参りしてから、先に進みます。

夷川通から、高倉通を約100m北上しました。
辻の北西角に、京都竹屋町高倉郵便局があります。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、竹屋町通を東に向いています。
約350m先の寺町通でいったん突き当たり、そこに革堂があります。
そこから約50m北に下御霊神社がいらして、
その辺りからさらに東に竹屋町通が土手町通まで伸びています。
(詳しくは、第162回ブログ参照)

今度は、高倉通から竹屋町通を西に向きました。
約250m先に、烏丸通との交差点があります。
(詳しくは、第202回ブログ参照)

竹屋町通から、高倉通を北に向いています。
では、この突き当りに向かって進みます。

竹屋町通から、高倉通を約100m北上しました。
高倉通は京都御苑で突き当たるので、
この先は京都御苑南端の丸太町通とのT字路です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、丸太町通を東に向いています。
ちょっとわかりにくいですが、
約50m先の標識の辺りが先述の堺町御門です。

今度は、高倉通から丸太町通を西に向きました。
ずっと向こうに見える白壁の建物の辺りが、
地下鉄「丸太町」駅がある「丸太町烏丸」交差点です。

高倉通から、丸太町通を西に約50m進みました。
ここから南に、間之町通(あいのまちどおり)が伸びています。
この道の突き当りに京都御苑への入り口の一つ
間之口門(まのくちもん)があるのが、その由来です。

丸太町通は高倉通とのT字路には横断歩道がないのですが、
間之口門前に位置する間之町通との交差点にはあります。
では、ここを渡っていきます。

丸太町通は京都市中京区と京都市上京区の区境なのですが、
京都御苑に入るまでは京都市中京区です。
間之口門から約50m西に進むと、丸太町通は東洞院通と交差します。
~うっかりミスで消去してしまったので、
この写真は2016年11月10日に撮影し直しました~

京都御苑南端、または丸太町通から東洞院通を南に向いています。
ここを約3500m進むと、京都駅前に到達します。

その辺りに大きな木があって、その根元にこちらのネコがいました。
ちょっと寒くなってきましたが、日向ぼっこをして居眠りですね。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

自分は動物を取るのが苦手でして、
いつもシャッターを押す最中に逃げられてしまいます。
(ウチのカメラは、一瞬でシャッターを押せません)
しかしながら、このように居眠り中は少々のことでは逃げません!
つまり、今このネコは撮り放題です!!
ですから、このように角度を変えて何枚も撮りました……
この写真も、クリックすれば拡大されます。

東洞院通から、丸太町通を西に約50m進みました。
車屋町通を通り過ぎた辺りに、
地下鉄「丸太町」駅1番入口があります。
では、ここから地下鉄に乗って帰宅します。
これで、「高倉通編」を終了します。
~次回は、ここから京都御苑にお邪魔します。
禁門の変の史跡中心に回ります~

二条通から、高倉通を北に向いています。
この先に、高倉通の突き当り京都御苑の森林が見えますね。
今回は、夷川通でうろうろしてからその突き当りまで進みます。
撮影日は、2016年10月27日木曜日午後3時半。
今回で、「高倉通編」が終わります。

二条通より北に進むと、高倉通には途端に京町家が激減します。
代わりに駐車場とマンションが増えていきますが、
お地蔵さんだけはこんな風に昔と変わらずいらっしゃいます。

さらに、この辺りでは空き地も見受けられるようになりました。
だんだんと確実に京町家が減ってきている京都市街地の現実が、
こういうところからでも分かります。

ただこのように、この辺りでも何軒かは京町家が残っています。
こちらは外国人向けの宿泊施設です。
この写真は、クリックすれば拡大します。

二条通から、高倉通を約100m北上しました。
高倉通は、ここで夷川通と交差します。

高倉通から、夷川通を東に向いています。
烏丸通~寺町通間の夷川通は、京都屈指の家具屋街です。
(詳細は、第202回ブログと第203回ブログを参照)

この辺りは幕末の1864年禁門の変の後に起こったどんどん焼けで
最も大きな被害が出た場所です。
京都は江戸時代の末期から明治時代初めまで
復興のためにこの辺りに家具屋や左官屋が集中しました。
それが夷川通の「家具屋街」の原型となりました。
今では真新しいインテリア家具を売るビルも増えましたが、
こちらの「万市」さんのように京町家の昔ながらの店もあります。

「万市」さんには、第202回ブログでもお邪魔しました。
やはりこちらに来たら、高く積み上げた火鉢が目に入ります。
いつもより火鉢の量が少なめなのは、
気温が下がっていくつか売れたからでしょうね。
この写真は、クリックすれば拡大されます。

「万市」さんといいますか、高倉通から夷川通を東に向いています。
左(北)に見えるのは家具屋さんの「宮崎平安堂」で、
右(南)も1Fは「宮崎平安堂」ですが、その上はマンションです。
この「家具屋街」も、だんだん家具屋さんよりも
マンションが目立つようになってきました。

高倉通から夷川通を東に進み、堺町通で北を向きました。
約250m先に、京都御苑の堺町御門が見えます。
毎年5月15日に開かれる葵祭では、
この門から巡行行列が京都市街地へと出て行きます。
そして、先述のどんどん焼けではこの堺町御門付近が火元でした。
そのどんどん焼けでは、京都市街地の中心部が全焼しました。
祇園祭の山鉾の大半が、いったんこの時点でほぼ焼失しました。
さらに、これが首都が京都から東京に移転した一因でもあります。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

「夷川堺町」の辻の南東角にある家具屋さんに、
大きなショウウィンドウがあります。
そちらには商品の家具ではなく、
小学生が描いた絵画などが展示されています。
この写真も、クリックしたら拡大されます。

堺町通から、夷川通を東に向いています。
約50m先に、柳馬場通が見えます。
ただ、その手前に大きな京町家が見えますね。

こちらが、その京町家です。京菓子の老舗「豆政」の本店です。
最近はいろいろ京名物が増えましたが、
そういうものの最初の1軒ですね。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

豆政で、こちらのお菓子を買いました。
左が、ここの名物「五色豆」です。
エンドウ豆に、色のついた砂糖が掛かっています。
実は、それぞれの色で味が微妙に違います。
特に茶色のものはニッキ(シナモン)味で、
自分はこれが一番のお気に入りです。
右は、エンドウ豆が入ったあられ以外にも
煮干しや小さなせんべいが入っています。
こちらの創業は明治時代の半ばですが、
それ以来八つ橋と並ぶ京名物と呼ばれてきました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

「豆政」の前で、夷川通を東に向いています。
この先の富小路から、また家具屋が建ち並ぶようになります。
柳馬場通を通り過ぎると、約300m先の寺町通で
いったん夷川通は突き当たります。
(詳細は、第161回ブログ参照)

今度は、「豆政」から夷川通を西に向きました。
では、こちらから高倉通に戻ります。

再び「夷川高倉」の辻に戻ってきました。
辻の北西角は先述の「宮崎平安堂」ですが、
北東角の京町家はお惣菜やお弁当のお店です。
(一見、パン屋に見えますね)
この近くにオフィスが多く(京都地方裁判所も近くです)
お昼時には結構流行っています。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

堺町通から、夷川通を西に向いています。
夷川通の両脇が、家具屋さんの「宮崎平安堂」ですね。
では、さらにここを進んでいきます。

先程の「万市」さんの前まで戻ってきました。
「万市」さんの左(西)側に、高倉通が伸びています。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

夷川通から、高倉通を北に向いています。
では、この突き当りまで歩いていきます。

夷川通から、高倉通を北上しています。
夷川通より北に進むと、またぽつぽつと京町家が復活します。
この写真も、クリックすると拡大されます。

その京町家の向かいに、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいました。
こちらにもお参りしてから、先に進みます。

夷川通から、高倉通を約100m北上しました。
辻の北西角に、京都竹屋町高倉郵便局があります。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、竹屋町通を東に向いています。
約350m先の寺町通でいったん突き当たり、そこに革堂があります。
そこから約50m北に下御霊神社がいらして、
その辺りからさらに東に竹屋町通が土手町通まで伸びています。
(詳しくは、第162回ブログ参照)

今度は、高倉通から竹屋町通を西に向きました。
約250m先に、烏丸通との交差点があります。
(詳しくは、第202回ブログ参照)

竹屋町通から、高倉通を北に向いています。
では、この突き当りに向かって進みます。

竹屋町通から、高倉通を約100m北上しました。
高倉通は京都御苑で突き当たるので、
この先は京都御苑南端の丸太町通とのT字路です。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

高倉通から、丸太町通を東に向いています。
ちょっとわかりにくいですが、
約50m先の標識の辺りが先述の堺町御門です。

今度は、高倉通から丸太町通を西に向きました。
ずっと向こうに見える白壁の建物の辺りが、
地下鉄「丸太町」駅がある「丸太町烏丸」交差点です。

高倉通から、丸太町通を西に約50m進みました。
ここから南に、間之町通(あいのまちどおり)が伸びています。
この道の突き当りに京都御苑への入り口の一つ
間之口門(まのくちもん)があるのが、その由来です。

丸太町通は高倉通とのT字路には横断歩道がないのですが、
間之口門前に位置する間之町通との交差点にはあります。
では、ここを渡っていきます。

丸太町通は京都市中京区と京都市上京区の区境なのですが、
京都御苑に入るまでは京都市中京区です。
間之口門から約50m西に進むと、丸太町通は東洞院通と交差します。
~うっかりミスで消去してしまったので、
この写真は2016年11月10日に撮影し直しました~

京都御苑南端、または丸太町通から東洞院通を南に向いています。
ここを約3500m進むと、京都駅前に到達します。

その辺りに大きな木があって、その根元にこちらのネコがいました。
ちょっと寒くなってきましたが、日向ぼっこをして居眠りですね。
この写真も、クリックすれば拡大されます。

自分は動物を取るのが苦手でして、
いつもシャッターを押す最中に逃げられてしまいます。
(ウチのカメラは、一瞬でシャッターを押せません)
しかしながら、このように居眠り中は少々のことでは逃げません!
つまり、今このネコは撮り放題です!!
ですから、このように角度を変えて何枚も撮りました……
この写真も、クリックすれば拡大されます。

東洞院通から、丸太町通を西に約50m進みました。
車屋町通を通り過ぎた辺りに、
地下鉄「丸太町」駅1番入口があります。
では、ここから地下鉄に乗って帰宅します。
これで、「高倉通編」を終了します。
~次回は、ここから京都御苑にお邪魔します。
禁門の変の史跡中心に回ります~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
夷川通の家具問屋「万市」が起点です。
~追記 その2~
本当は、高倉通はまだまだ続きます。
これは「高倉通編」その1でも書いたことなのですが、
安土桃山時代以前の京都御苑付近にあった建物は、
鴨川以東の三条通以北に移設されました。
そちらが、今の「新」高倉通の由来です。
そちらも「高倉通編」として取材するべきなのですが、
まぁそれはそのうちとします。
また京都御苑内も高倉通の位置が
建礼門前大通に当たります。
ですから、次回からそこを進んでいきます。
~追記 その3~
名古屋グランパス社長の発言で……
11月に入って、J2リーグのJ1昇格組はまだ確定していませんが、
J1リーグのJ2降格クラブは決定しました。
ここ数年のJ1クラブを見る限り、運営次第で
大半のクラブが優勝と降格のどちらの可能性もあります。
その典型例が名古屋グランパスなのですが、
要は降格してもそれを糧に昇格できればいい訳です。
(浦和・広島・柏など、降格後の方が強くなったクラブも多いです)
ただ、J1最終節後名古屋の社長がクラブ創設以来初めての降格を
「不名誉」とか「恥ずかしい」とか表現したことには
ちょっと引っ掛かります。
それでは、まるでJ2リーグ常駐クラブはずっと「不名誉」で
「恥ずかしい」ことになります。
さらに、レノファ山口など最近やっとJ3リーグから昇格した
J2クラブはもっと「不名誉」で「恥ずかしい」のでしょうか?
もし「ウチはそういうクラブとは違う」とか考えていたら、
それこそ失礼極まりません。
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
夷川通の家具問屋「万市」が起点です。
~追記 その2~
本当は、高倉通はまだまだ続きます。
これは「高倉通編」その1でも書いたことなのですが、
安土桃山時代以前の京都御苑付近にあった建物は、
鴨川以東の三条通以北に移設されました。
そちらが、今の「新」高倉通の由来です。
そちらも「高倉通編」として取材するべきなのですが、
まぁそれはそのうちとします。
また京都御苑内も高倉通の位置が
建礼門前大通に当たります。
ですから、次回からそこを進んでいきます。
~追記 その3~
名古屋グランパス社長の発言で……
11月に入って、J2リーグのJ1昇格組はまだ確定していませんが、
J1リーグのJ2降格クラブは決定しました。
ここ数年のJ1クラブを見る限り、運営次第で
大半のクラブが優勝と降格のどちらの可能性もあります。
その典型例が名古屋グランパスなのですが、
要は降格してもそれを糧に昇格できればいい訳です。
(浦和・広島・柏など、降格後の方が強くなったクラブも多いです)
ただ、J1最終節後名古屋の社長がクラブ創設以来初めての降格を
「不名誉」とか「恥ずかしい」とか表現したことには
ちょっと引っ掛かります。
それでは、まるでJ2リーグ常駐クラブはずっと「不名誉」で
「恥ずかしい」ことになります。
さらに、レノファ山口など最近やっとJ3リーグから昇格した
J2クラブはもっと「不名誉」で「恥ずかしい」のでしょうか?
もし「ウチはそういうクラブとは違う」とか考えていたら、
それこそ失礼極まりません。
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