第437回 蛤御門と旧近衛邸~京都御苑秋散策~その3
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高倉通の延長線上にある京都御苑内の建礼門前大通を北上し、
京都御所南側の正門「建礼門」の前に来ました。
今回はここから京都御所西側を北上し、乾御門から帰宅します。
撮影日は、2016年11月10日木曜日午後3時15分。
今回も、全ての写真がクリックすれば拡大されます。

建礼門前大通最北端にある建礼門の前で、西を向きました。
右(北)側に、京都御所の土塀が見えますね。
では、こちらを進んでいきます。

建礼門から西に約200m進みました。こちらが蛤御門です。
江戸時代は通常閉じられていて、「なかなか開かない」という意味で
蛤(はまぐり)にこの門が例えられていました。
この門が歴史上に登場するのは、1864年の禁門の変です。
徐々に勢力を奪われていた長州藩が起死回生を狙い
当時在位していた孝明天皇(明治天皇の父)を長州に連れ去るべく、
嵯峨野嵐山の天龍寺に陣取った後京都御苑に攻め込みました。
長州藩は最初会津藩が守護するこの蛤御門を突破し、
京都御苑内への侵入を成功させました。
そして、そのまま約200m先にある先述の建礼門から
天皇の邸宅でもある京都御所に入ろうとしました。
ところが、乾御門を守護していた薩摩藩が反転し
長州藩の軍勢を側面攻撃した辺りから形勢が逆転しました。

建礼門と蛤御門との中間に、こちらの椋が生えています。
ちょうど京都御所の南西角に当たります。
この木が、京都御苑で最大で最長寿です。
そして、この木の根本が禁門の変の最終局面の地です。
会津藩と薩摩藩の軍勢に囲まれた長州藩軍は、
この木の根本で壊滅しました。
木嶋又兵衛も、ここで討ち死にしました。
その後会津藩や薩摩藩・新撰組は
長州藩残党を追い打ちするため天龍寺を焼き払い、
第435回ブログに出て来た堺町御門付近に放火しました。
これが、第434回ブログでも出てきた「どんどん焼け」です。
結局京都の中心街はその大半が焼失し、
祇園祭の山鉾も大半が無くなってしまいました。
(当時焼失分は、2014年に全て再興しました)
また、これが京都から東京に首都が移転した一因です。

その椋の根本で、北を向きました。
この道は、京都御苑以南の東洞院通の位置にあります。
また、この道は京都御所の西側を貫いています。

その道を北上し、京都御所の西側を歩いています。
京都御所の向かい(西)側には、様々な木々が並んでいます。
こちらは大桜でしょうか?紅葉は今(2016年11月10日)見頃です。
カエデの紅葉は、もう少し先のようですね。

さらにその北側です。
この辺りは、桜並木が続いています。
結構密集しているせいか、一部紅葉していないところもあります。

先程の椋の大木から、約200m北上しました。
ここで、西側に伸びる道が現れます。

そのT字路で、西を向きました。
約100m先に、中立売御門が見えます。
タクシーとの比較でもわかる通りここが最大の門で、
観光バスはこの門の南側にある京都御苑最大の駐車場に停まります。
ですから、多くの方がここが正門と考えておられるようですが、
別にそういう訳ではありません。
(詳細は、第197回ブログ参照)

こちらの桜の低木が、「御所車返しの桜」です。
後水尾天皇がこの桜のことを気に召したらしく
この桜を見るためにわざわざここまで御所車を戻されたそうです。
桜の見ごろは逃しましたが、
紅葉の見ごろは上手く見ることができました。

「御所車返しの桜」の前で、北を向きました。
約50m先から、京都御所を訪れた方が出てこられています。
一般の方々は、あちらから京都御所に出入りしているようですね。

京都御所の出入り口の向かい(西)側に
栴檀(せんだん)の大木がありましたが、これはその木の瘤でした。
木の内部に細菌が侵入したためにできました。
要するにこれは病気なので、樹医によって取り除かれました。

その辺りで、北を向きました。
この辺りは、左(西)に桜並木が続いています。

ただ、中にはこのようにカエデも並んでいます。
こちらも、まだ紅く染まり切っていませんね。

椋の大木から、約500m北上しました。
この辺りが、京都御所の最北端です。

その辺りで、東を向きました。
右(南)側に、京都御所の北壁が続いています。
約500m先に第166回ブログに出てきた石薬師御門があり、
そこを抜けるとすぐ寺町通に出ます。

京都御所の西側の道を北上していくと、
京都御所の北端から急に道が狭くなります。
実は、こちらの先が今回の次の目的地です。

その道は、約20mで突き当たります。
その先は、大きな児童公園です。
周囲に桜やカエデ並木が続いていて、なかなかの絶景です。
とは言え、今回の目的地はここではなく右(東)の方にあります。

先程の場所で、東を向きました。
この辺りは、江戸時代まで
九条家同様分裂した藤原氏本家の一つ近衛家の邸宅がありました。
(子孫に、近衛文麿がいます)
ですから、この辺りが旧近衛邸跡です。

先程の児童公園の東隣に、大きな枝垂桜が並んでいます。
残念ながら、どちらも葉が落ちてしまっています。
その東側に大きなカエデが並んでいるのですが、
こちらはまだまだ葉が碧いままです……
いろいろ残念なのですが、とりあえず向こうのベンチに座ります。

そしてベンチに座ると、バックパックからこちらを取り出しました。
実は地下鉄に乗った際、「烏丸御池」駅で途中下車しました。
そして第433回ブログに出てきた「エキナカ」の志津屋に立ち寄り、
こちらのパンと缶入りカフェオレを買いました。
前回ブログで白雲神社から頂いた玉串も一緒に写り込みます。

自分が高校生だったころ、
第24回ブログに出てきた「松原寺町」交差点にも
志津屋の支店(地域スーパーも兼ねていました)がありました。
当時を思い出して、その頃よく買っていたものを買いました。
先ずこちらは、ペッパーカルネです。
生玉葱とハムをはさみ、胡椒入りマヨネーズで味付けしています。
この店の象徴的なパンですね。

こちらが、ジャンボハムというサンドイッチです。
バケットの切れ端に、チーズとハムとレタスがはさんであります。
類似品にポテトサラダをはさんだジャンボポテトがありますが、
自分はこの2品を交互に買っていました。

この2品で満腹になったので、残りのブドウ入りパンは
家に帰ってからコーヒーと一緒に頂きました。
個人的にはブドウ入りパンはバターを塗ると甘味が増すと思います。

ベンチに座りながら、東側の景色を眺めていました。
紅葉がもっと進むとここは相当絶景になりますが……
まだ先のことのようです……
(結構楽しみにしていました……)
ただ、ブログ更新日の2016年11月22日なら
もう十分見ごろでしょうね。

本当は、桜も紅葉もこの旧近衛家邸宅跡が
京都御苑随一の名所なのですが、
どうも毎回時機を逸してしまいます。
ではパンを食べ終えたので、このまま西に進みます。

ベンチから西に約100m進むと、京都御所西側の道に戻ります。
旧近衛家邸宅跡はかなりの絶景ポイントなのですが、
実はあまり人が入ってきません。

京都御所北側の道に出て、西に向きました。
では、ここから京都御苑から出ます。

先程の地点から、西に約100m進みました。
こちらに、乾御門が見えます。(「乾」とは、北西のことです)
では、ここから京都御苑を出ます。

乾御門から、京都御苑を出ました。
では、京都御苑西側の烏丸通を西に渡ります。

信号を渡って、烏丸通を北に向きました。
では、ここを北上していきます。

その横断歩道から、約150m北上しました。
こちらは、「今出川烏丸」交差点南西角です。
では地下鉄「今出川」駅6番口から地下に入り、帰宅します。
今回は、ここまでです。
~次回から、月輪(つきのわ)で紅葉散策をします。
月輪とは、泉涌寺や東福寺がある地域のことです~
~2016年11月22日午後3時半に追記~
なぜか本日急に休日になり、(おかげ様で、数カ月ぶりの連休です)
時間的余裕ができたので、更新から約12時間後に
本編更新時に書ききれなかった追記を書いていきます。
(実は、結構長くなります)
~追記 その1~
京都御苑と京都御所の違い
豊臣秀吉による都市整備を終えた安土桃山時代以降、
この位置に歴代天皇が鎮座されました。
そして歴代天皇が政務を執り行い生活していた場が京都御所です。
さらにその周囲に公家(貴族)の邸宅が並びました。
その地域のことを京都御苑といいます。
つまり、京都御苑内に京都御所があるわけです。
~追記 その2~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
京都御所の建礼門が起点です。
~追記 その3~
いきなり先発ですか!
ちょっと前の話なのですが、2016年11月15日に
W杯ロシア大会の予選が行われ、
ホームの日本が1位のサウジアラビアに何とか勝利しました。
日本はアジア諸国にだいぶ研究されているので、
本田選手や香川選手を控えに回すのも
作戦としてアリとは思っていました。
ただ、本田選手の代わりに元京都サンガの久保裕也選手を
いきなり先発に使ったのは、ただただ驚きでした。
(正直、ハリルホジッチ監督の構想に入っていないと思っていました)
久保選手は、日本人としてはかなり異質です。
2011年4月第2日曜日(松尾祭の日でした)の対岡山戦で
デビュー戦で決勝ゴールを決めた後
「次も俺のゴールで勝ちます。次も俺のゴールを見に来てください」
そんなことを言って、サポーターを喜ばせていました。
普段はむしろ無口でおとなしいのですが、
サッカーになると人格が変わるのは
かつての名選手朴智星を彷彿させます。
(2000年シーズン~2002年シーズンの3シーズン京都に在籍。
後にオランダのPSVを経由して、
マンチェスターユナイテッドでルーニー選手と2トップを組み、
欧州王者や世界制覇などのタイトルを獲りました。
その間、韓国代表でも活躍しました。2014年引退)
久保選手は京都では純然たるストライカーだったのですが、
スイスのヤングボーイズでは「トップ下」で、
FWのシュートのこぼれ球をゴールに押し込んだり、
中盤でゲームを作ったりしています。
(スイスの国内リーグでは、普通に得点王争いをしています)
「みんなでパスを回して、みんなでゴールを決める」
日本のスタイルとは京都時代は相容れないタイプだったので、
実力があっても日本代表には選ばれないと思っていました。
それが、この日の久保選手はほかの選手と上手く馴染んでいました。
しかも、他の選手に合わせるのではなく、
自分の個性を前面に出した上で互いに活躍していました。
確かに久保選手は細かくパスを回すタイプではないのですが、
(強引に前へ前へ出るタイプです)
パス回しを繰り返す中で久保選手が混ざるといいアクセントになり、
サウジアラビア代表がそのことで混乱していました。
デビュー当時からずっと応援してきた身としては、
久保選手のさらなる活躍を望んでいる一方、
活躍すればすればでいろいろ心配なことも考えてしまいます。
(マークが厳しくなって怪我をするとか、
ベテラン選手と上手くやっていけるのかとか)

高倉通の延長線上にある京都御苑内の建礼門前大通を北上し、
京都御所南側の正門「建礼門」の前に来ました。
今回はここから京都御所西側を北上し、乾御門から帰宅します。
撮影日は、2016年11月10日木曜日午後3時15分。
今回も、全ての写真がクリックすれば拡大されます。

建礼門前大通最北端にある建礼門の前で、西を向きました。
右(北)側に、京都御所の土塀が見えますね。
では、こちらを進んでいきます。

建礼門から西に約200m進みました。こちらが蛤御門です。
江戸時代は通常閉じられていて、「なかなか開かない」という意味で
蛤(はまぐり)にこの門が例えられていました。
この門が歴史上に登場するのは、1864年の禁門の変です。
徐々に勢力を奪われていた長州藩が起死回生を狙い
当時在位していた孝明天皇(明治天皇の父)を長州に連れ去るべく、
嵯峨野嵐山の天龍寺に陣取った後京都御苑に攻め込みました。
長州藩は最初会津藩が守護するこの蛤御門を突破し、
京都御苑内への侵入を成功させました。
そして、そのまま約200m先にある先述の建礼門から
天皇の邸宅でもある京都御所に入ろうとしました。
ところが、乾御門を守護していた薩摩藩が反転し
長州藩の軍勢を側面攻撃した辺りから形勢が逆転しました。

建礼門と蛤御門との中間に、こちらの椋が生えています。
ちょうど京都御所の南西角に当たります。
この木が、京都御苑で最大で最長寿です。
そして、この木の根本が禁門の変の最終局面の地です。
会津藩と薩摩藩の軍勢に囲まれた長州藩軍は、
この木の根本で壊滅しました。
木嶋又兵衛も、ここで討ち死にしました。
その後会津藩や薩摩藩・新撰組は
長州藩残党を追い打ちするため天龍寺を焼き払い、
第435回ブログに出て来た堺町御門付近に放火しました。
これが、第434回ブログでも出てきた「どんどん焼け」です。
結局京都の中心街はその大半が焼失し、
祇園祭の山鉾も大半が無くなってしまいました。
(当時焼失分は、2014年に全て再興しました)
また、これが京都から東京に首都が移転した一因です。

その椋の根本で、北を向きました。
この道は、京都御苑以南の東洞院通の位置にあります。
また、この道は京都御所の西側を貫いています。

その道を北上し、京都御所の西側を歩いています。
京都御所の向かい(西)側には、様々な木々が並んでいます。
こちらは大桜でしょうか?紅葉は今(2016年11月10日)見頃です。
カエデの紅葉は、もう少し先のようですね。

さらにその北側です。
この辺りは、桜並木が続いています。
結構密集しているせいか、一部紅葉していないところもあります。

先程の椋の大木から、約200m北上しました。
ここで、西側に伸びる道が現れます。

そのT字路で、西を向きました。
約100m先に、中立売御門が見えます。
タクシーとの比較でもわかる通りここが最大の門で、
観光バスはこの門の南側にある京都御苑最大の駐車場に停まります。
ですから、多くの方がここが正門と考えておられるようですが、
別にそういう訳ではありません。
(詳細は、第197回ブログ参照)

こちらの桜の低木が、「御所車返しの桜」です。
後水尾天皇がこの桜のことを気に召したらしく
この桜を見るためにわざわざここまで御所車を戻されたそうです。
桜の見ごろは逃しましたが、
紅葉の見ごろは上手く見ることができました。

「御所車返しの桜」の前で、北を向きました。
約50m先から、京都御所を訪れた方が出てこられています。
一般の方々は、あちらから京都御所に出入りしているようですね。

京都御所の出入り口の向かい(西)側に
栴檀(せんだん)の大木がありましたが、これはその木の瘤でした。
木の内部に細菌が侵入したためにできました。
要するにこれは病気なので、樹医によって取り除かれました。

その辺りで、北を向きました。
この辺りは、左(西)に桜並木が続いています。

ただ、中にはこのようにカエデも並んでいます。
こちらも、まだ紅く染まり切っていませんね。

椋の大木から、約500m北上しました。
この辺りが、京都御所の最北端です。

その辺りで、東を向きました。
右(南)側に、京都御所の北壁が続いています。
約500m先に第166回ブログに出てきた石薬師御門があり、
そこを抜けるとすぐ寺町通に出ます。

京都御所の西側の道を北上していくと、
京都御所の北端から急に道が狭くなります。
実は、こちらの先が今回の次の目的地です。

その道は、約20mで突き当たります。
その先は、大きな児童公園です。
周囲に桜やカエデ並木が続いていて、なかなかの絶景です。
とは言え、今回の目的地はここではなく右(東)の方にあります。

先程の場所で、東を向きました。
この辺りは、江戸時代まで
九条家同様分裂した藤原氏本家の一つ近衛家の邸宅がありました。
(子孫に、近衛文麿がいます)
ですから、この辺りが旧近衛邸跡です。

先程の児童公園の東隣に、大きな枝垂桜が並んでいます。
残念ながら、どちらも葉が落ちてしまっています。
その東側に大きなカエデが並んでいるのですが、
こちらはまだまだ葉が碧いままです……
いろいろ残念なのですが、とりあえず向こうのベンチに座ります。

そしてベンチに座ると、バックパックからこちらを取り出しました。
実は地下鉄に乗った際、「烏丸御池」駅で途中下車しました。
そして第433回ブログに出てきた「エキナカ」の志津屋に立ち寄り、
こちらのパンと缶入りカフェオレを買いました。
前回ブログで白雲神社から頂いた玉串も一緒に写り込みます。

自分が高校生だったころ、
第24回ブログに出てきた「松原寺町」交差点にも
志津屋の支店(地域スーパーも兼ねていました)がありました。
当時を思い出して、その頃よく買っていたものを買いました。
先ずこちらは、ペッパーカルネです。
生玉葱とハムをはさみ、胡椒入りマヨネーズで味付けしています。
この店の象徴的なパンですね。

こちらが、ジャンボハムというサンドイッチです。
バケットの切れ端に、チーズとハムとレタスがはさんであります。
類似品にポテトサラダをはさんだジャンボポテトがありますが、
自分はこの2品を交互に買っていました。

この2品で満腹になったので、残りのブドウ入りパンは
家に帰ってからコーヒーと一緒に頂きました。
個人的にはブドウ入りパンはバターを塗ると甘味が増すと思います。

ベンチに座りながら、東側の景色を眺めていました。
紅葉がもっと進むとここは相当絶景になりますが……
まだ先のことのようです……
(結構楽しみにしていました……)
ただ、ブログ更新日の2016年11月22日なら
もう十分見ごろでしょうね。

本当は、桜も紅葉もこの旧近衛家邸宅跡が
京都御苑随一の名所なのですが、
どうも毎回時機を逸してしまいます。
ではパンを食べ終えたので、このまま西に進みます。

ベンチから西に約100m進むと、京都御所西側の道に戻ります。
旧近衛家邸宅跡はかなりの絶景ポイントなのですが、
実はあまり人が入ってきません。

京都御所北側の道に出て、西に向きました。
では、ここから京都御苑から出ます。

先程の地点から、西に約100m進みました。
こちらに、乾御門が見えます。(「乾」とは、北西のことです)
では、ここから京都御苑を出ます。

乾御門から、京都御苑を出ました。
では、京都御苑西側の烏丸通を西に渡ります。

信号を渡って、烏丸通を北に向きました。
では、ここを北上していきます。

その横断歩道から、約150m北上しました。
こちらは、「今出川烏丸」交差点南西角です。
では地下鉄「今出川」駅6番口から地下に入り、帰宅します。
今回は、ここまでです。
~次回から、月輪(つきのわ)で紅葉散策をします。
月輪とは、泉涌寺や東福寺がある地域のことです~
~2016年11月22日午後3時半に追記~
なぜか本日急に休日になり、(おかげ様で、数カ月ぶりの連休です)
時間的余裕ができたので、更新から約12時間後に
本編更新時に書ききれなかった追記を書いていきます。
(実は、結構長くなります)
~追記 その1~
京都御苑と京都御所の違い
豊臣秀吉による都市整備を終えた安土桃山時代以降、
この位置に歴代天皇が鎮座されました。
そして歴代天皇が政務を執り行い生活していた場が京都御所です。
さらにその周囲に公家(貴族)の邸宅が並びました。
その地域のことを京都御苑といいます。
つまり、京都御苑内に京都御所があるわけです。
~追記 その2~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
京都御所の建礼門が起点です。
~追記 その3~
いきなり先発ですか!
ちょっと前の話なのですが、2016年11月15日に
W杯ロシア大会の予選が行われ、
ホームの日本が1位のサウジアラビアに何とか勝利しました。
日本はアジア諸国にだいぶ研究されているので、
本田選手や香川選手を控えに回すのも
作戦としてアリとは思っていました。
ただ、本田選手の代わりに元京都サンガの久保裕也選手を
いきなり先発に使ったのは、ただただ驚きでした。
(正直、ハリルホジッチ監督の構想に入っていないと思っていました)
久保選手は、日本人としてはかなり異質です。
2011年4月第2日曜日(松尾祭の日でした)の対岡山戦で
デビュー戦で決勝ゴールを決めた後
「次も俺のゴールで勝ちます。次も俺のゴールを見に来てください」
そんなことを言って、サポーターを喜ばせていました。
普段はむしろ無口でおとなしいのですが、
サッカーになると人格が変わるのは
かつての名選手朴智星を彷彿させます。
(2000年シーズン~2002年シーズンの3シーズン京都に在籍。
後にオランダのPSVを経由して、
マンチェスターユナイテッドでルーニー選手と2トップを組み、
欧州王者や世界制覇などのタイトルを獲りました。
その間、韓国代表でも活躍しました。2014年引退)
久保選手は京都では純然たるストライカーだったのですが、
スイスのヤングボーイズでは「トップ下」で、
FWのシュートのこぼれ球をゴールに押し込んだり、
中盤でゲームを作ったりしています。
(スイスの国内リーグでは、普通に得点王争いをしています)
「みんなでパスを回して、みんなでゴールを決める」
日本のスタイルとは京都時代は相容れないタイプだったので、
実力があっても日本代表には選ばれないと思っていました。
それが、この日の久保選手はほかの選手と上手く馴染んでいました。
しかも、他の選手に合わせるのではなく、
自分の個性を前面に出した上で互いに活躍していました。
確かに久保選手は細かくパスを回すタイプではないのですが、
(強引に前へ前へ出るタイプです)
パス回しを繰り返す中で久保選手が混ざるといいアクセントになり、
サウジアラビア代表がそのことで混乱していました。
デビュー当時からずっと応援してきた身としては、
久保選手のさらなる活躍を望んでいる一方、
活躍すればすればでいろいろ心配なことも考えてしまいます。
(マークが厳しくなって怪我をするとか、
ベテラン選手と上手くやっていけるのかとか)
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