第595回 島原輪違屋特別公開~京都駅から島原へ~その5
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壬生川通から、花屋町通を約50m西に進みました。
道のど真ん中に大きな門がありますが、
あちらが島原大門で江戸時代からこの位置にありました。
つまり、門をくぐったあちら側が花街の島原です。
今回は、「京の夏の旅」企画の一環で行われている
花街島原の置屋「輪違屋」(わちがいや)の特別公開を見に行きます。
撮影日は、2018年8月19日日曜日午後3時。
やはり島原は、炎天下が似合います。

島原大門をくぐり、花屋町通を西に向いています。
ここから西は、江戸時代の花街だった場所です。
そのような地域は道路がアスファルトではなく、
石畳で敷き詰められています。
現在は太夫の詰め所である置屋は1軒だけで、
お客さんが太夫と出会える揚屋は残っていません。
ただ元々そういうお店だった京町家が数多く残っており、
それらの家屋が独特の街並みを作っています。

島原大門から約30m西に進むと、花屋町通は坊城通と交差します。
こちらは、その辻の南西角の京町家です。
以前こちらを訪れた第315回ブログでは改装中でしたが、
3年経った現在はそれももう完成していました。

その京町家の前で、花屋町通を西に向いています。
目の前で、花屋町通は坊城通と交差しています。

花屋町通から、坊城通を南に向いています。
かつての花街島原だった地域は、花屋町通でなくても石畳の道です。
この坊城通は約100m南の正面通でいったん途切れますが、
その辺りまで石畳の道は続きます。
(坊城通最南端は、約400m先の七条通です)

今度は花屋町通から、坊城通を北に向きました。
約30m先に、たくさんの方々が出入りしている京町家があります。
灯りに付いた二つの輪がズレて重なっている家紋から、
こちらが置屋の「輪違屋」(わちがいや)だと分かります。

花屋町通から、坊城通を約30m北上しました。
入口からここに入り、土間で入場料を支払いました。
そして、靴を脱いでここから屋内に入りました。
祇園や先斗町・上七軒にしてもそうですが、京都の花街には
お客さんがいらっしゃる揚屋(またはお茶屋)と、
料理を調理してその揚屋に持ってくる仕出し屋と、
舞妓や芸妓(島原では太夫)の詰め所である置屋があります。
このうち、こちらの輪違屋さんは置屋に分類されます。
京都市指定文化財ではあるのですが、
考えようによっては「太夫さんの生活の場」でもあるので、
普段は公開していません。

こちらに詰めていらっしゃる学芸員さんに訊いたのですが、
輪違屋では1Fの撮影は自由にできるそうです。
(2Fの写真撮影は、全面的に不可です。
そちらにはより重要な文化財があります)
そこで1F限定ですが、写真を何枚か撮りました。
障子と木戸の間がガラス戸になっていて、
ガラスの部分にこの輪違屋の家紋が彫られています。
こちらの家屋が今の形になったのは江戸時代末期なので、
一部が洋風に改装されています。

こちらは玄関奥の少し広くなった部屋の奥の床の間です。
この左(西)に階段があって、そこから2Fに行けます。
ただし、そちらは前述のように撮影不可で
しかも一度に上がれる人数が限られるので、
(無理に上がると、重さで2Fの床が抜けるそうです)
先に1Fの方を回ります。

その階段の脇に、廊下がありました。
では、こちらの奥に進みます。

この廊下は、約5m続きます。
その先に中庭があって、この廊下はそのまま縁側になります。

廊下から、その縁側に移ってきました。
拝観者は、この中庭に入ることができません。
ですから、ここからお稲荷さんにお参りします。

縁側から、天井を見ています。
家屋の中心から外に向けて、梁が等間隔に並んでいます。
こちらはデザインではなく、この梁が家屋全体を支えています。
ですから、あまり大人数が2Fに上ると
床が抜けて家屋が倒壊してしまいます。
(この家屋が古いからではなく、元々そういう構造です)
では、障子を開けてこちらのお座敷に入っていきます。

そのお座敷に入ってきました。
元々は、輪違屋所属の太夫さんたちはここで生活されていました。
(今は、別の部屋を使われているそうです)
鷹峯の常照寺を建立した学者としても有名な吉野太夫や
江戸時代末期に活躍した桜木太夫は共に輪違屋所属でしたので、
おそらくこの部屋で生活していたのでしょうね。

その部屋の襖を写真に撮りました。
文字が書かれた和紙が何枚も貼られていますが、
こちらは全て、代々の輪違屋所属の太夫さんが書かれたものです。
このように残されると何か特別なものに見えますが、
実はこれらは全て手紙の失敗作です。
ただ高価な紙を使っていて、捨てるには惜しいものだそうです。
それでも、こうして見ると立派な文化財ですね。

障子の隅には、こちらの屏風がありました。
こちらは元々は手紙で、筆者は新撰組局長近藤勇です。
どうやら近藤勇は「筆まめ」だったらしく輪違屋所属の太夫さんに
何通も熱心に手紙を書いていたようです。
明治時代に入って、新撰組は京都では賊軍として扱われ
近藤勇の手紙も島原の太夫さん自身が処分してしまったものが多く、
このように残っているものは例外中の例外だそうです。
(こちらの学芸員さんに、教えて頂きました)
ただ、この文を読んでみますと……
「婦人好色」(女性は、いやらしい人が多く)
から始まるように、とんでもない「下ネタ」です。

こちらは、その向かい側の床の間です。
こちらにも掛け軸が掛かっています。
その右(東)側に、坪庭があるようです。

こちらが、その坪庭です。
この日(2018年8月19日)は快晴で、この時点で33℃くらいでした。
ところがこの部屋で両方の障子を開けておくと、
エアコンがない輪違屋屋内でも涼しく感じました。
町家造の面目躍如ですね。

これで、輪違屋1Fを一通り見て回りました。
次は階段から2Fに上がりますが、そちらは撮影不可です。

輪違屋2Fは撮影不可なので、ここからはパフレットで紹介します。
都合により、次回ブログで訪れる角屋の地下っとも写っています。
和傘が二つ並んで貼られた襖がある部屋が、2Fで最大でした。
(この写真の左下のチケットに写った部屋です)
ただその先は太夫さんが生活されている部屋もあって、
撮影だけでなくそちらに行くこと自体不可でした。

一通り見て回ったので、輪違屋の外に出てきました。
輪違屋の店先で撮影されている方々も多かったですが、
輪違屋に来られた大半の方々はこのまま帰られたようです。
ただ、島原の観光ポイントはこの周囲にもあります。
取りあえず、輪違屋前の坊城通をこのまま北上します。

輪違屋の前から、坊城通を約50m北上しました。
坊城通は約500m先の京都産業大学付属高校で突き当たりますが、
約100m北の松原通で復活し、その約300m北に壬生寺があります。
つまり新撰組屯所があった壬生と、この島原は隣接しています。
(第26回ブログ参照)
写真中央の京町家の北隣が、京都市島原地域包括支援センターです。
(写真左側の平屋の建物のことです)
元々、こちらに島原の歌舞練場がありました。
(歌舞練場は、祇園や先斗町・宮川町・上七軒には現存します)
確かこちらの桜は立派だそうですが、確認したことはありません。
次回ブログに出てくる幸天満宮も、
元々はこちらにいらっしゃいました。

京都島原地域包括センターの向かい(西)側に、
日蓮宗成就山法華寺があります。
では、こちらにお参りします。

法華寺境内の北側に、妙見宮があります。
妙見宮は妙見菩薩を祀っていますが、
本満寺など日蓮宗寺院に、妙見宮は多いですね。

こちらが、日蓮宗成就山法華寺の本堂です。
釈迦如来像が、ご本尊です。
こちらは、813年に真言宗東寺の塔頭として建立されました。
それが鎌倉時代の1281年当時の住職の真広法印が
日蓮の弟子となってこちらは日蓮宗になりました。
京都の日蓮宗は延暦寺の僧兵などに度々攻撃を受けましたが、
それはこちらも例外ではありませんでした。
ただ一貫して東寺の北側に位置していたのですが、
現在の位置に移ったのは1963年の東海道新幹線線路建設のためです。

京都市島原地域包括センターと法華寺前で坊城通を南に向きました。
では、こちらから花屋町通に戻ります。

法華寺から、坊城通を南下しています。
輪違屋の北側は更地ですが、
そこから輪違屋の西側に煙突が見えます。
あの辺りに銭湯があるのですが、今からそこに向かいます。

輪違屋の前で、坊城通を南に向いています。
この先で坊城通は、花屋町通と交差します。

坊城通から、花屋町通を西に向いています。
ちなみに京都の島原は、行政的には「西新屋敷」です。
次は、こちらを西に向かいます。

坊城通通から、花屋町通を西に歩いています。
左(南)側に「松栄」という旅館があって、
修学旅行生などがよく宿泊しておられるようです。
また、こちらの浴室は料金を支払えば
宿泊客でなくても入浴でき、事実上スーパー銭湯です。
とは言え、先ほどの煙突はこちらのものではありません。

その「松栄」の向かい(北)側に、こちらの町家があります。
この辺りの京町家は民家が大半ですが、
こちらは陶磁器やガラス器を販売するお店です。
この時間帯でも営業されていましたが、
時間帯が無くなっているので先を急ぎます。

末裔とその陶磁器店の前で、花屋町通を西に向いています。
ここでまた花屋町通は、南北の道と交差します。

花屋町通から、南北に伸びる道を南に向いています。
左(東)側は、駐車場の先に旅館「松栄」の本館が見えます。
(松栄には、こちらから入ります)
右(西)側は百日紅(さるすべり)がきれいですが、
こちらは第二次世界大戦のころまで揚屋でしたが、
現在は旅館兼カフェです。(詳細は、次回ブログで)

今度は同じ位置で、北を向きました。
左(西)側の家屋は民家に見えますが、実は製本所です。
では、こちらの道を少し北上します。

花屋町通から、この南北に伸びる道を約30m北上しました。
すると、「島原温泉」という銭湯があります。
(関西では、時折「温泉」と名の付く銭湯があります)
こちらは京都市街地としては割と遅くまで営業されているので、
仕事帰りにここまで自転車で来ることがあります。
実は次回ブログの角屋での取材の後、ここで入浴しました。
(ここからは、時間軸が実際と異なります)

その島原温泉の前に、このような張り紙がありました。
やはり、この日(2018年8月19日)に地蔵盆があるようです。
ウチの町内より1週間早いです。
ウチの母に聞いたところ、どうもウチの町内会長さんが
仕事の都合で地蔵盆を1週間ずらしていたようです。
ですからこの日に地蔵盆をすることが通常で、
ウチの町内が特殊だったようです。
ただもともと地蔵盆は毎年8月21日に固定されていたもので、
その感覚から8月19日は早いようにも思います。

島原温泉の前で、石畳の道を南に向いています。
花屋町通に戻るまでに、右(西)側に京町家が見えます。
こちらが第315回ブログ以来時折自分が通い詰めているhyggeです。
島原の花街内では2軒ある町屋カフェのうちの1軒です。
こちらにも、入浴の帰りに立ち寄りました。

こちらが、hyggeの店内の様子です。
こちらの土間の先に座敷があって、さらに先には坪庭があります。
典型的な京町家の作りですね。
自分がこの店に入ったとき、ちょうど満員で
入るのを諦めようとしていました。
ところが、その時カウンターにいらした小父さんが
「ほな、帰りますわ」
そう言い残されて席を立たれました。
和服姿がちょっとかっこいいなと思っていたのですが、
こちらの店主曰く、その方が先述の輪違屋の主人だったそうです。

いつもはここで凍頂烏龍茶など中国茶を頼むのですが、
この日は宇治金時のかき氷を頼みました。
輪違屋のパンフレットと一緒に写してみました。

こちらが、注文した宇治金時です。
かき氷に掛かっているのは、純然たる抹茶です。
シロップではないので、甘味は強くありません。
その代わり、器の下に小豆餡と甘味の付いた白玉が入っています。
それをかき氷に混ぜて食べると、ちょうどいい甘さになります。
自分は、これを約30分かけて食べました。
とてもゆっくりですが、まぁ本を読みながらでしたから……
こちらを食べ終わった後、こちらを出ました。
あと残っているのは角屋の拝観だけですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けました。
ここから先は、次回とします。
~次回は、角屋に拝観して帰宅します~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
島原の置屋輪違屋が、起点です。
~追記 その2~
輪違屋の一般公開は2018年9月末までです
今回ブログで紹介した輪違屋の一般公開は、2018年9月末までです。
こちらは「京の夏の旅」企画の一環なので、
普段は公開されておりません。
拝観をご希望の方は更新日より日が少ないので、
何卒お急ぎください。
~追記 その3~
北海道大地震にお見舞い申し上げます
京都市内が台風21号で被害を受けた2日後に、
北海道の胆振地区で震度7の大地震が起きました。
連日甚大な被害がTVなどで放送されておりますが、
被災地の方々にはお見舞い申し上げます。
そして、1日も早い復興をお祈りしております。

壬生川通から、花屋町通を約50m西に進みました。
道のど真ん中に大きな門がありますが、
あちらが島原大門で江戸時代からこの位置にありました。
つまり、門をくぐったあちら側が花街の島原です。
今回は、「京の夏の旅」企画の一環で行われている
花街島原の置屋「輪違屋」(わちがいや)の特別公開を見に行きます。
撮影日は、2018年8月19日日曜日午後3時。
やはり島原は、炎天下が似合います。

島原大門をくぐり、花屋町通を西に向いています。
ここから西は、江戸時代の花街だった場所です。
そのような地域は道路がアスファルトではなく、
石畳で敷き詰められています。
現在は太夫の詰め所である置屋は1軒だけで、
お客さんが太夫と出会える揚屋は残っていません。
ただ元々そういうお店だった京町家が数多く残っており、
それらの家屋が独特の街並みを作っています。

島原大門から約30m西に進むと、花屋町通は坊城通と交差します。
こちらは、その辻の南西角の京町家です。
以前こちらを訪れた第315回ブログでは改装中でしたが、
3年経った現在はそれももう完成していました。

その京町家の前で、花屋町通を西に向いています。
目の前で、花屋町通は坊城通と交差しています。

花屋町通から、坊城通を南に向いています。
かつての花街島原だった地域は、花屋町通でなくても石畳の道です。
この坊城通は約100m南の正面通でいったん途切れますが、
その辺りまで石畳の道は続きます。
(坊城通最南端は、約400m先の七条通です)

今度は花屋町通から、坊城通を北に向きました。
約30m先に、たくさんの方々が出入りしている京町家があります。
灯りに付いた二つの輪がズレて重なっている家紋から、
こちらが置屋の「輪違屋」(わちがいや)だと分かります。

花屋町通から、坊城通を約30m北上しました。
入口からここに入り、土間で入場料を支払いました。
そして、靴を脱いでここから屋内に入りました。
祇園や先斗町・上七軒にしてもそうですが、京都の花街には
お客さんがいらっしゃる揚屋(またはお茶屋)と、
料理を調理してその揚屋に持ってくる仕出し屋と、
舞妓や芸妓(島原では太夫)の詰め所である置屋があります。
このうち、こちらの輪違屋さんは置屋に分類されます。
京都市指定文化財ではあるのですが、
考えようによっては「太夫さんの生活の場」でもあるので、
普段は公開していません。

こちらに詰めていらっしゃる学芸員さんに訊いたのですが、
輪違屋では1Fの撮影は自由にできるそうです。
(2Fの写真撮影は、全面的に不可です。
そちらにはより重要な文化財があります)
そこで1F限定ですが、写真を何枚か撮りました。
障子と木戸の間がガラス戸になっていて、
ガラスの部分にこの輪違屋の家紋が彫られています。
こちらの家屋が今の形になったのは江戸時代末期なので、
一部が洋風に改装されています。

こちらは玄関奥の少し広くなった部屋の奥の床の間です。
この左(西)に階段があって、そこから2Fに行けます。
ただし、そちらは前述のように撮影不可で
しかも一度に上がれる人数が限られるので、
(無理に上がると、重さで2Fの床が抜けるそうです)
先に1Fの方を回ります。

その階段の脇に、廊下がありました。
では、こちらの奥に進みます。

この廊下は、約5m続きます。
その先に中庭があって、この廊下はそのまま縁側になります。

廊下から、その縁側に移ってきました。
拝観者は、この中庭に入ることができません。
ですから、ここからお稲荷さんにお参りします。

縁側から、天井を見ています。
家屋の中心から外に向けて、梁が等間隔に並んでいます。
こちらはデザインではなく、この梁が家屋全体を支えています。
ですから、あまり大人数が2Fに上ると
床が抜けて家屋が倒壊してしまいます。
(この家屋が古いからではなく、元々そういう構造です)
では、障子を開けてこちらのお座敷に入っていきます。

そのお座敷に入ってきました。
元々は、輪違屋所属の太夫さんたちはここで生活されていました。
(今は、別の部屋を使われているそうです)
鷹峯の常照寺を建立した学者としても有名な吉野太夫や
江戸時代末期に活躍した桜木太夫は共に輪違屋所属でしたので、
おそらくこの部屋で生活していたのでしょうね。

その部屋の襖を写真に撮りました。
文字が書かれた和紙が何枚も貼られていますが、
こちらは全て、代々の輪違屋所属の太夫さんが書かれたものです。
このように残されると何か特別なものに見えますが、
実はこれらは全て手紙の失敗作です。
ただ高価な紙を使っていて、捨てるには惜しいものだそうです。
それでも、こうして見ると立派な文化財ですね。

障子の隅には、こちらの屏風がありました。
こちらは元々は手紙で、筆者は新撰組局長近藤勇です。
どうやら近藤勇は「筆まめ」だったらしく輪違屋所属の太夫さんに
何通も熱心に手紙を書いていたようです。
明治時代に入って、新撰組は京都では賊軍として扱われ
近藤勇の手紙も島原の太夫さん自身が処分してしまったものが多く、
このように残っているものは例外中の例外だそうです。
(こちらの学芸員さんに、教えて頂きました)
ただ、この文を読んでみますと……
「婦人好色」(女性は、いやらしい人が多く)
から始まるように、とんでもない「下ネタ」です。

こちらは、その向かい側の床の間です。
こちらにも掛け軸が掛かっています。
その右(東)側に、坪庭があるようです。

こちらが、その坪庭です。
この日(2018年8月19日)は快晴で、この時点で33℃くらいでした。
ところがこの部屋で両方の障子を開けておくと、
エアコンがない輪違屋屋内でも涼しく感じました。
町家造の面目躍如ですね。

これで、輪違屋1Fを一通り見て回りました。
次は階段から2Fに上がりますが、そちらは撮影不可です。

輪違屋2Fは撮影不可なので、ここからはパフレットで紹介します。
都合により、次回ブログで訪れる角屋の地下っとも写っています。
和傘が二つ並んで貼られた襖がある部屋が、2Fで最大でした。
(この写真の左下のチケットに写った部屋です)
ただその先は太夫さんが生活されている部屋もあって、
撮影だけでなくそちらに行くこと自体不可でした。

一通り見て回ったので、輪違屋の外に出てきました。
輪違屋の店先で撮影されている方々も多かったですが、
輪違屋に来られた大半の方々はこのまま帰られたようです。
ただ、島原の観光ポイントはこの周囲にもあります。
取りあえず、輪違屋前の坊城通をこのまま北上します。

輪違屋の前から、坊城通を約50m北上しました。
坊城通は約500m先の京都産業大学付属高校で突き当たりますが、
約100m北の松原通で復活し、その約300m北に壬生寺があります。
つまり新撰組屯所があった壬生と、この島原は隣接しています。
(第26回ブログ参照)
写真中央の京町家の北隣が、京都市島原地域包括支援センターです。
(写真左側の平屋の建物のことです)
元々、こちらに島原の歌舞練場がありました。
(歌舞練場は、祇園や先斗町・宮川町・上七軒には現存します)
確かこちらの桜は立派だそうですが、確認したことはありません。
次回ブログに出てくる幸天満宮も、
元々はこちらにいらっしゃいました。

京都島原地域包括センターの向かい(西)側に、
日蓮宗成就山法華寺があります。
では、こちらにお参りします。

法華寺境内の北側に、妙見宮があります。
妙見宮は妙見菩薩を祀っていますが、
本満寺など日蓮宗寺院に、妙見宮は多いですね。

こちらが、日蓮宗成就山法華寺の本堂です。
釈迦如来像が、ご本尊です。
こちらは、813年に真言宗東寺の塔頭として建立されました。
それが鎌倉時代の1281年当時の住職の真広法印が
日蓮の弟子となってこちらは日蓮宗になりました。
京都の日蓮宗は延暦寺の僧兵などに度々攻撃を受けましたが、
それはこちらも例外ではありませんでした。
ただ一貫して東寺の北側に位置していたのですが、
現在の位置に移ったのは1963年の東海道新幹線線路建設のためです。

京都市島原地域包括センターと法華寺前で坊城通を南に向きました。
では、こちらから花屋町通に戻ります。

法華寺から、坊城通を南下しています。
輪違屋の北側は更地ですが、
そこから輪違屋の西側に煙突が見えます。
あの辺りに銭湯があるのですが、今からそこに向かいます。

輪違屋の前で、坊城通を南に向いています。
この先で坊城通は、花屋町通と交差します。

坊城通から、花屋町通を西に向いています。
ちなみに京都の島原は、行政的には「西新屋敷」です。
次は、こちらを西に向かいます。

坊城通通から、花屋町通を西に歩いています。
左(南)側に「松栄」という旅館があって、
修学旅行生などがよく宿泊しておられるようです。
また、こちらの浴室は料金を支払えば
宿泊客でなくても入浴でき、事実上スーパー銭湯です。
とは言え、先ほどの煙突はこちらのものではありません。

その「松栄」の向かい(北)側に、こちらの町家があります。
この辺りの京町家は民家が大半ですが、
こちらは陶磁器やガラス器を販売するお店です。
この時間帯でも営業されていましたが、
時間帯が無くなっているので先を急ぎます。

末裔とその陶磁器店の前で、花屋町通を西に向いています。
ここでまた花屋町通は、南北の道と交差します。

花屋町通から、南北に伸びる道を南に向いています。
左(東)側は、駐車場の先に旅館「松栄」の本館が見えます。
(松栄には、こちらから入ります)
右(西)側は百日紅(さるすべり)がきれいですが、
こちらは第二次世界大戦のころまで揚屋でしたが、
現在は旅館兼カフェです。(詳細は、次回ブログで)

今度は同じ位置で、北を向きました。
左(西)側の家屋は民家に見えますが、実は製本所です。
では、こちらの道を少し北上します。

花屋町通から、この南北に伸びる道を約30m北上しました。
すると、「島原温泉」という銭湯があります。
(関西では、時折「温泉」と名の付く銭湯があります)
こちらは京都市街地としては割と遅くまで営業されているので、
仕事帰りにここまで自転車で来ることがあります。
実は次回ブログの角屋での取材の後、ここで入浴しました。
(ここからは、時間軸が実際と異なります)

その島原温泉の前に、このような張り紙がありました。
やはり、この日(2018年8月19日)に地蔵盆があるようです。
ウチの町内より1週間早いです。
ウチの母に聞いたところ、どうもウチの町内会長さんが
仕事の都合で地蔵盆を1週間ずらしていたようです。
ですからこの日に地蔵盆をすることが通常で、
ウチの町内が特殊だったようです。
ただもともと地蔵盆は毎年8月21日に固定されていたもので、
その感覚から8月19日は早いようにも思います。

島原温泉の前で、石畳の道を南に向いています。
花屋町通に戻るまでに、右(西)側に京町家が見えます。
こちらが第315回ブログ以来時折自分が通い詰めているhyggeです。
島原の花街内では2軒ある町屋カフェのうちの1軒です。
こちらにも、入浴の帰りに立ち寄りました。

こちらが、hyggeの店内の様子です。
こちらの土間の先に座敷があって、さらに先には坪庭があります。
典型的な京町家の作りですね。
自分がこの店に入ったとき、ちょうど満員で
入るのを諦めようとしていました。
ところが、その時カウンターにいらした小父さんが
「ほな、帰りますわ」
そう言い残されて席を立たれました。
和服姿がちょっとかっこいいなと思っていたのですが、
こちらの店主曰く、その方が先述の輪違屋の主人だったそうです。

いつもはここで凍頂烏龍茶など中国茶を頼むのですが、
この日は宇治金時のかき氷を頼みました。
輪違屋のパンフレットと一緒に写してみました。

こちらが、注文した宇治金時です。
かき氷に掛かっているのは、純然たる抹茶です。
シロップではないので、甘味は強くありません。
その代わり、器の下に小豆餡と甘味の付いた白玉が入っています。
それをかき氷に混ぜて食べると、ちょうどいい甘さになります。
自分は、これを約30分かけて食べました。
とてもゆっくりですが、まぁ本を読みながらでしたから……
こちらを食べ終わった後、こちらを出ました。
あと残っているのは角屋の拝観だけですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けました。
ここから先は、次回とします。
~次回は、角屋に拝観して帰宅します~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
島原の置屋輪違屋が、起点です。
~追記 その2~
輪違屋の一般公開は2018年9月末までです
今回ブログで紹介した輪違屋の一般公開は、2018年9月末までです。
こちらは「京の夏の旅」企画の一環なので、
普段は公開されておりません。
拝観をご希望の方は更新日より日が少ないので、
何卒お急ぎください。
~追記 その3~
北海道大地震にお見舞い申し上げます
京都市内が台風21号で被害を受けた2日後に、
北海道の胆振地区で震度7の大地震が起きました。
連日甚大な被害がTVなどで放送されておりますが、
被災地の方々にはお見舞い申し上げます。
そして、1日も早い復興をお祈りしております。
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