第597回 島原住吉神社~京都駅から島原~その7
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前回ブログの角屋から北上し、花屋町通に戻って西に向きました。
こちらは、京都の花街島原のほぼ西端に当たります。
今回はここから島原西門跡から島原を出て、
JR嵯峨野線「丹波口」駅から帰宅します。
撮影日は、2018年8月19日日曜日午後5時半。
前回ブログ撮影後、第595回ブログの島原温泉と
町屋カフェのHyggeに寄り道したので、ここまで遅くなりました。

先程の辻から、花屋町通を西に約30m進みました。
ここで、花屋町通はいったん突き当たります。
ただ、花屋町通はJR嵯峨野線の高架や京都中央市場の西
ここから約100m先からまた西に伸びています。
最終的に、花屋町通は阪急電車「西京極」駅付近で突き当たります。
さて、花屋町通がいったん突き当たっている場所に
こちらの石碑が立っています。
かつての島原(行政的には、「京都市下京区西新屋敷」)周辺は、
平安時代に鴻臚館(こうろかん)がありました。
要するに、外国向けの大使館ですね。
とは言え当時の中国は唐が滅んで宋が建国される前の混乱期で、
外交ができる状態ではありませんでした。
また朝鮮半島にはたびたび日本と戦争をしていた新羅があって、
こちらとも「友好」外交ができる状態ではありませんでした。
(この直後に建国された「高麗」とは、日本は友好関係にありました)
ですから、この頃国交があった外国とは渤海のことでした。

その鴻臚館跡の石碑がある地点で、北を向きました。
ここの地面が石畳であるように、この辺りも江戸時代は島原でした。
では、こちらを北上していきます。

鴻臚館跡の石碑から、石畳の道を北上しています。
途中に、こちらの飲食店がありました。
時間帯の関係で閉店していますが、店先によく行列ができています。
この近くに京都中央市場があるので、
そちらから鮮魚などを仕入れておいしいものを提供してくれます。

鴻臚館前から、石畳の道を約50m北上しました。
ここで、その石畳の道も突き当たります。
ただ、その突き当りにあるマンションの脇に
小さな神社がいらっしゃいます。
ちょっとそちらに立ち寄ってみます。

こちらが、その脇の小さな神社です。
では、今回ブログのメイン島原住吉神社にお参りします。
(第314回ブログ以来ですね)

先程の鳥居をくぐってすぐに、手水舎があります。
先ずはこちらで、手を浄めます。
そう言えば、神社の周囲の石柱に人名が彫られてあります。
おそらく、こちらの再建に尽力された方々の名前なのでしょうね。

その手水舎の前で、西を向きました。
拝殿越しに、島原住吉神社本殿を見ています。
こちらのご祭神は、おそらく住吉三神です。
元々は島原の商人住吉屋太兵衛宅の鎮守社でしたが、
江戸時代半ばに太兵衛自身の手によって、
この地に移ってきました。
当時はこの辺1区画を有するかなり大きな神社だったようで、
いくつか末社も擁していたようです。
ただ、明治時代に入った1868年に太政官より発せられた
神仏分離令によりいったん廃社に追い込まれました。
(神仏分離令では、社格が低い神社を一斉に廃社しています。
もっとも、その大半は数十年かけて再興しています)
その後、この辺地域の方々の尽力によって
明治時代後半の1903年に島原住吉神社は再興されました。
ただその敷地は、往時の半分以下になりました。

島原住吉神社境内の西側に、こちらがいらっしゃいます。
幸天満宮(さいわいてんまんぐう)という名称ですので、
ご祭神はおそらく菅原道真です。
こちらは元々第595回ブログの島原歌舞練場にいらっしゃいましたが、
島原住吉神社がこの地に移った際にこちらも移ってきて、
島原住吉神社の末社となりました。
ただそのために1868年の神仏分離令では
この島原住吉神社と運命を共にしました。
ですから1903年の島原住吉神社再興の際に、
こちらの幸天満宮も再興されました。

その島原住吉神社から出て、石畳の道を西に向きました。
島原住吉神社の西側は千本通と接していて、
その千本通の手前で道路が石畳からアスファルトに戻ります。
江戸時代まではこの境目付近に島原西大門がありました。
つまり、この千本通はかつての花街島原の外ということになります。

石畳の道を出て、千本通を南に向いています。
左(東)側に京都中央信用金庫丹波口出張所があります。
おそらく島原は、京都中央卸売市場と隣接しているからでしょうね。
右(西)側にはJR嵯峨野線の高架が続いています。
この千本通は、約400m先の七条通まで続いています。
(第314回ブログを参照)

今度は同じ位置で、千本通を北に向きました。
左(西)側のJR嵯峨野線の高架下が、
そのまま京都中央卸売市場の施設になっています。
(たくさんの大型トラックが停まっていますね)
右(東)側は先程の島原住吉神社で、
そのまま島原最西端沿いに歩くことになります。
では、この千本通を北上していきます。

先程の位置から、千本通を約50m北上しました。
第315回ブログでは、この交差点の南東角に
ちゃんこ屋さんがありました。
それが今は更地になって、駐車場です。

その交差点で、千本通から東を向きました。
駐車場の先に、朱い鳥居が並んでいる場所があります。
では、ちょっとこちらに立ち寄ります。

一見稲荷神社に見えますが、こちらは歳白弁財天女です。
もちろんご祭神は弁財天ですが、
ご神体は背後の大きな銀杏の木です。
元々こちらは先述の島原住吉神社の境内で、
こちらの歳白弁財天女もその末社でした。
1868年の神仏分離令で島原住吉神社は廃社になりましたが、
こちらの銀杏は御神木なのでそのまま維持され、
その際こちらの歳白弁財天女も
島原住吉神社から独立して現在に至ります。

そして、こちらがその御神木の銀杏です。
西本願寺など京都市下京区には、見事な銀杏が多いですね。
そう言えば、京都市下京区の象徴も銀杏でした。

かつてちゃんこ屋だった駐車場の前で、千本通から北を向きました。
ここから北は右(東)側も花街の島原ではなく、
京都中央卸売市場の施設が並びだします。

その辺りで、千本通から位から西を向きました。
JR嵯峨野線の高架下に京都中央卸売市場の施設が並びます。
とは言え、この時間帯は事実上空洞になっているので
向こう側(新千本通付近)が丸見えです。
ここに深夜や早朝に、一面に魚とかが並ぶのでしょうね。

先程の駐車場の前から、千本通を北に向きました。
京都中央卸売市場の施設に囲まれていますが、
時間帯の関係で今は静かですね。
では、ここを北上します。

先程の位置から、千本通を約200m北上しました。
この先で、千本通は中堂寺通と交差します。

千本通から、中堂寺通を東に向いています。
この先に繁みが見えますが、
あちらが「中堂寺児童公園」という大きな公園です。
こちらから遊んでいる小学生が見えましたので、
これ以上先は撮りませんでした。

中堂寺通から、千本通を北に向きました。
JR嵯峨野線の高架の上に電車が止まっていますが、
この辺りはJR嵯峨野線「丹波口」駅のホームです。
今電車が止まっているということは、
自分はこの電車には乗れないということですね。

中堂寺通から、千本通を約70m北上しました。
「五条千本」交差点南西角に、
JR嵯峨野線「丹波口」駅があります。
では、こちらから京都駅経由で帰宅します。
これで、「京都駅から島原」編を終了します。
~次回は、若宮祭を取材します~

前回ブログの角屋から北上し、花屋町通に戻って西に向きました。
こちらは、京都の花街島原のほぼ西端に当たります。
今回はここから島原西門跡から島原を出て、
JR嵯峨野線「丹波口」駅から帰宅します。
撮影日は、2018年8月19日日曜日午後5時半。
前回ブログ撮影後、第595回ブログの島原温泉と
町屋カフェのHyggeに寄り道したので、ここまで遅くなりました。

先程の辻から、花屋町通を西に約30m進みました。
ここで、花屋町通はいったん突き当たります。
ただ、花屋町通はJR嵯峨野線の高架や京都中央市場の西
ここから約100m先からまた西に伸びています。
最終的に、花屋町通は阪急電車「西京極」駅付近で突き当たります。
さて、花屋町通がいったん突き当たっている場所に
こちらの石碑が立っています。
かつての島原(行政的には、「京都市下京区西新屋敷」)周辺は、
平安時代に鴻臚館(こうろかん)がありました。
要するに、外国向けの大使館ですね。
とは言え当時の中国は唐が滅んで宋が建国される前の混乱期で、
外交ができる状態ではありませんでした。
また朝鮮半島にはたびたび日本と戦争をしていた新羅があって、
こちらとも「友好」外交ができる状態ではありませんでした。
(この直後に建国された「高麗」とは、日本は友好関係にありました)
ですから、この頃国交があった外国とは渤海のことでした。

その鴻臚館跡の石碑がある地点で、北を向きました。
ここの地面が石畳であるように、この辺りも江戸時代は島原でした。
では、こちらを北上していきます。

鴻臚館跡の石碑から、石畳の道を北上しています。
途中に、こちらの飲食店がありました。
時間帯の関係で閉店していますが、店先によく行列ができています。
この近くに京都中央市場があるので、
そちらから鮮魚などを仕入れておいしいものを提供してくれます。

鴻臚館前から、石畳の道を約50m北上しました。
ここで、その石畳の道も突き当たります。
ただ、その突き当りにあるマンションの脇に
小さな神社がいらっしゃいます。
ちょっとそちらに立ち寄ってみます。

こちらが、その脇の小さな神社です。
では、今回ブログのメイン島原住吉神社にお参りします。
(第314回ブログ以来ですね)

先程の鳥居をくぐってすぐに、手水舎があります。
先ずはこちらで、手を浄めます。
そう言えば、神社の周囲の石柱に人名が彫られてあります。
おそらく、こちらの再建に尽力された方々の名前なのでしょうね。

その手水舎の前で、西を向きました。
拝殿越しに、島原住吉神社本殿を見ています。
こちらのご祭神は、おそらく住吉三神です。
元々は島原の商人住吉屋太兵衛宅の鎮守社でしたが、
江戸時代半ばに太兵衛自身の手によって、
この地に移ってきました。
当時はこの辺1区画を有するかなり大きな神社だったようで、
いくつか末社も擁していたようです。
ただ、明治時代に入った1868年に太政官より発せられた
神仏分離令によりいったん廃社に追い込まれました。
(神仏分離令では、社格が低い神社を一斉に廃社しています。
もっとも、その大半は数十年かけて再興しています)
その後、この辺地域の方々の尽力によって
明治時代後半の1903年に島原住吉神社は再興されました。
ただその敷地は、往時の半分以下になりました。

島原住吉神社境内の西側に、こちらがいらっしゃいます。
幸天満宮(さいわいてんまんぐう)という名称ですので、
ご祭神はおそらく菅原道真です。
こちらは元々第595回ブログの島原歌舞練場にいらっしゃいましたが、
島原住吉神社がこの地に移った際にこちらも移ってきて、
島原住吉神社の末社となりました。
ただそのために1868年の神仏分離令では
この島原住吉神社と運命を共にしました。
ですから1903年の島原住吉神社再興の際に、
こちらの幸天満宮も再興されました。

その島原住吉神社から出て、石畳の道を西に向きました。
島原住吉神社の西側は千本通と接していて、
その千本通の手前で道路が石畳からアスファルトに戻ります。
江戸時代まではこの境目付近に島原西大門がありました。
つまり、この千本通はかつての花街島原の外ということになります。

石畳の道を出て、千本通を南に向いています。
左(東)側に京都中央信用金庫丹波口出張所があります。
おそらく島原は、京都中央卸売市場と隣接しているからでしょうね。
右(西)側にはJR嵯峨野線の高架が続いています。
この千本通は、約400m先の七条通まで続いています。
(第314回ブログを参照)

今度は同じ位置で、千本通を北に向きました。
左(西)側のJR嵯峨野線の高架下が、
そのまま京都中央卸売市場の施設になっています。
(たくさんの大型トラックが停まっていますね)
右(東)側は先程の島原住吉神社で、
そのまま島原最西端沿いに歩くことになります。
では、この千本通を北上していきます。

先程の位置から、千本通を約50m北上しました。
第315回ブログでは、この交差点の南東角に
ちゃんこ屋さんがありました。
それが今は更地になって、駐車場です。

その交差点で、千本通から東を向きました。
駐車場の先に、朱い鳥居が並んでいる場所があります。
では、ちょっとこちらに立ち寄ります。

一見稲荷神社に見えますが、こちらは歳白弁財天女です。
もちろんご祭神は弁財天ですが、
ご神体は背後の大きな銀杏の木です。
元々こちらは先述の島原住吉神社の境内で、
こちらの歳白弁財天女もその末社でした。
1868年の神仏分離令で島原住吉神社は廃社になりましたが、
こちらの銀杏は御神木なのでそのまま維持され、
その際こちらの歳白弁財天女も
島原住吉神社から独立して現在に至ります。

そして、こちらがその御神木の銀杏です。
西本願寺など京都市下京区には、見事な銀杏が多いですね。
そう言えば、京都市下京区の象徴も銀杏でした。

かつてちゃんこ屋だった駐車場の前で、千本通から北を向きました。
ここから北は右(東)側も花街の島原ではなく、
京都中央卸売市場の施設が並びだします。

その辺りで、千本通から位から西を向きました。
JR嵯峨野線の高架下に京都中央卸売市場の施設が並びます。
とは言え、この時間帯は事実上空洞になっているので
向こう側(新千本通付近)が丸見えです。
ここに深夜や早朝に、一面に魚とかが並ぶのでしょうね。

先程の駐車場の前から、千本通を北に向きました。
京都中央卸売市場の施設に囲まれていますが、
時間帯の関係で今は静かですね。
では、ここを北上します。

先程の位置から、千本通を約200m北上しました。
この先で、千本通は中堂寺通と交差します。

千本通から、中堂寺通を東に向いています。
この先に繁みが見えますが、
あちらが「中堂寺児童公園」という大きな公園です。
こちらから遊んでいる小学生が見えましたので、
これ以上先は撮りませんでした。

中堂寺通から、千本通を北に向きました。
JR嵯峨野線の高架の上に電車が止まっていますが、
この辺りはJR嵯峨野線「丹波口」駅のホームです。
今電車が止まっているということは、
自分はこの電車には乗れないということですね。

中堂寺通から、千本通を約70m北上しました。
「五条千本」交差点南西角に、
JR嵯峨野線「丹波口」駅があります。
では、こちらから京都駅経由で帰宅します。
これで、「京都駅から島原」編を終了します。
~次回は、若宮祭を取材します~
~追記 その1~
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
島原住吉神社が、起点です。
~追記 その2~
「今日の夏の旅」企画は9月末まで
2018年の「京の夏の旅」企画の一つに、
島原周辺の輪違屋と角屋の特別公開がありますが、
それらは2018年の9月末で終了します。
とは言え太夫さんの住居である置屋の輪違屋は普段非公開ですが、
現在博物館として経営されている角屋は普段から公開されています。
更新日から2週間弱で輪違屋の特別公開は終了します。
拝観後希望の方は、お急ぎください。
この辺りの地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
島原住吉神社が、起点です。
~追記 その2~
「今日の夏の旅」企画は9月末まで
2018年の「京の夏の旅」企画の一つに、
島原周辺の輪違屋と角屋の特別公開がありますが、
それらは2018年の9月末で終了します。
とは言え太夫さんの住居である置屋の輪違屋は普段非公開ですが、
現在博物館として経営されている角屋は普段から公開されています。
更新日から2週間弱で輪違屋の特別公開は終了します。
拝観後希望の方は、お急ぎください。
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